ゆらぐ蜉蝣文字
□第4章 グランド電柱
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4.5.8
めざす“食鳥やなぎ”を探して、二人は、川の流れを裸足で何度か渡渉し、丈の高い草におおわれた原野をさまよいますが、結局見つかりません。
鳥たちは、まるで、わざと樹に吸い込まれたかのように、いきなり楊の木に落ち込んで、樹の中から、こちらがどんな反応をするか、じっと観察しているようです‥
二人の子供たちは、自然を探りに来たのに、逆に“自然”によって、ほしいままに探られているのです。。。
「それから毒ヶ森の麓の黒い松林の方へ向いて、きつねのしっぽのやうな茶いろの草の穂をふんで歩いて行きました。」
「〔…〕私たちはもう何も云ひませんでした。鳥を吸い込む楊の木があるとも思へず、又鳥の落ち込みやうがあんまりひどいので、そんなことが全くないとも思へず、ほんたうに気持ちが悪くなったのでした。
『もうだめだよ。帰らう。』私は云いました。そして慶次郎もだまってくるっと戻ったのでした。
けれどもいまでもまだ私には、楊の木に鳥を吸い込む力があると思へて仕方ないのです。」
この童話のテーマは、作者が少年時に体験した、“自然”の一種の恐ろしさではないでしょうか?‥
それは人間の生命をも、いつ吸い込んでしまうか分からない“自然”なのです。
作者が多感な思春期のさなかに死別した藤原健次郎を、同行する友人のモデルにしているのも、テーマと繋がる設定なのだと思います。
とは言っても、この作品中の「私」と「慶次郎」は、生命の危険に脅かされているわけでは、まったくありません。客観的に危険な状況を描いたからといって、“自然”の恐ろしさが顕れるわけではないのです。
むしろ、重要なのは、彼らが、子供の知識ではあっても、楊の“電気”“磁力”といった“自然”の不思議な現象を探索する意図で、多少暴力的に(石を投げて)、自然に立ち向かって行っていることだと思います。
科学の力を信じて向かって来る人間に対して、“自然”は、その恐ろしい姿のごく一端をチラ見させて、人間の小ざかしい試みを跳ね返し、粉砕するのです。
宮沢賢治が原像として持っていた“自然”は、そのような存在でした。。。
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