ゆらぐ蜉蝣文字
□第4章 グランド電柱
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4.3.2
09小學校長をたかぶつて散歩することは
10まことにつつましく見える)
「小學校長をたかぶつて」は、まるで小学校長のように誇らしげに、という意味ですが、これは、“散歩している人”の内部感情だと思います。つまり、“たかぶって見える”のではなく、本人の気持ちが“昂ぶっている”のです。
短歌から類例を挙げますと:
「この度は
薄明穹につらなりて
高倉山の黒きたかぶり。」(歌稿B,#590)
「高倉山」が傲然と聳え立って見えるというのではなく、
「高倉山」自身が、傲然と昂ぶっている、山そのものが傲然たる感情を持っている──ということです。
つまり、賢治の表現は、他人であれ、また人以外の自然物であれ、作者自身と区別無く“感情を持った存在”として描き出します★
★(注) 佐藤通雅『宮沢賢治の文学世界』,1979,泰流社,pp.34,36-37.
これに対して、次の行の「まことにつつましく」は、他人から見た“見え”です。
つまり、本人は、自然と気持ちが昂ぶってしまうのに、
そうして散歩している姿が風景に溶け合って、他人から見ると「まことにつつましく見える」‥
それが、夜明けの霧の中で散歩している状態だと言うのです。
「小學校長」は、当時の地方都市では、もっとも身近かにいて最も尊敬される人物ではないかと思います。住民の大部分は、小学校までしか行きません。小学校長は、子供のいるすべての家庭で知られている偉イサンなのです。
さて、この「小學校長をたかぶつて散歩」しているのは誰なのかが、問題になります。
文脈から、いちばんしっくりするのは、さきほどマッチを擦ってタバコに火をつけた知人を言っていると解することだと思います。
しかし、作者、同行者以外の、たまたま見かけた第三者かもしれませんし、
誰かれではなく、一般に、このような朝もやの中で散歩する人は誰でも‥ということかもしれません。
もっと誇らしげにしてよいのだ、こんなにすばらしい明け方の景色の中に居るのだから‥‥と呼びかけているようにも思えます。。。
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