ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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「光炎菩薩太陽マヂツクの歌」という表現が、「小岩井農場」と『太陽マヂツク』、両方にありますが、
とりあえずは、
空高くから照って大地を暖めてくれるやさしい太陽──という意味にとれます。
しかし、散文『太陽マヂツク』をおしまいまで読んでゆくと、この“菩薩のマヂック”という言葉には、特別な意味のあることが分かるのです:
. 散文『太陽マヂック』
「おや、このせきの去年のちいさな丸太の橋は、雪代水で流れたな、からだだけならすぐ跳べるんだが肥桶をどうしやうな。阿部君、まづ跳び越えてください。うまい、少しぐちゃっと苔にはいったけれども、まあいゝねえ、それではぼくはいまこっちで桶をつるすから、そっちでとってくれ給へ。そら、重い、ぼくは起重機の一種だよ。重い、ほう、天びん棒がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った。太陽マヂックなんだ。ほんたうに。うまい。〔…〕
楊の木でも樺の木でも、燐光の樹液がいっぱい脈をうってゐます。」
「天びん棒☆がひとりでに、磁石のように君の手へ吸い着いて行った」★ことを、「太陽マヂック」と呼んでいるのです
☆(注) 「天秤棒」を見たことがない人は⇒:画像ファイル・天秤棒
散文のこの部分は、「小岩井農場」の:
. 春と修羅・初版本
123ああ陽光のマヂツクよ
124ひとつのせきをこえるとき
125ひとりがかつぎ棒をわたせば
126それは太陽のマヂツクにより
127磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた
に対応します。「小岩井農場」を読んでいると、まるで、生徒たちがおおぜい並んで、天秤棒をリレーで渡しているように読めますが、そうではないのです‥
じっさいには、散文のほうに書いてあるように、賢治と阿部、二人だけの体験なのです。
★(注) いままで三人称で呼ばれていた阿部時夫が、ここでいきなり二人称になっていることに、注目すべきです。この少年に対する作者の思い入れの強さが現れていると言うべきです。
そして、「小岩井農場」のほうでは逆に、作者と少年との私秘的な体験をカモフラージュするかのように、「ひとりが」「もひとりの」と、両者ともに三人称(ないし不定人称「ひと」)に、されているのです。
そこで、具体的に、小川を堰き止めた細長い池を飛び越そうとしている場面を、思い浮かべてみてください。
賢治は、長い天秤棒の片端を下腹にあて、両手で握って支えています。棒の先には重い肥え桶(カラの)が吊るされています。その棒の先が、池の向こう側にいる阿部少年の手に「磁石のように……吸い着い」たというのです。
賢治の格好は何かを象徴していないでしょうか?
勃起した長大な男性器が「磁石のように君の手へ吸い着いて行った」という隠れた意味をもつ表現になっていることは、否定できないでしょう。
賢治自身は意識していない可能性もありますが◇、この程度の深層心理的解釈は許されると思います。
『太陽マヂック』で、作者が阿部少年を誘って、他の生徒たちとは違う道を通って学校に戻ったのも、二人だけの時間を過ごすためだったと解せます。
◇(注) 森惣一によれば、宮澤賢治はハバロック・エリスの『性学体系』を読んでフロイトの精神分析をよく知っていたと云いますから(『新校本全集』第16巻(下),補遺・伝記資料篇,p.372)、この部分も、意識して性的願望の表現として書いている可能性があります。なお、賢治はなぜ『性学体系』のような分厚い専門外の専門書を読んだかですが、同性愛志向のある自分の性欲が、異常なものではないかどうか、確かめようとしたのだと思います。
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