ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.5.29


. 春と修羅・初版本

101すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
102ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
103またほのぼのとかヾやいてわらふ
104みんなすあしのこどもらだ

この農道をさらに北へ歩いて行った先には、農場員の子弟が通う《小岩井尋常小学校》がありました。《場内小学校》とも呼ばれていました:小岩井小学校 写真 (イ) 写真9,10 地図「小岩井農場・パート3」 地図A

この日(5月21日)は日曜日で、学校は休みなのですが、岡澤氏によると、子どもたちは、運動会の準備のために日曜でも登校しているのです。
約2週間後に迫った運動会のために、日曜でも子供たちは駆けっこやお遊戯の練習をしに学校へ集っていたと言います。

小岩井農場では、毎年6月6日は農場の創業を祝う“農場記念祭”が催されました。
そして、1917年からは、記念式典のあとで、場内運動会が開催されていたのです。

『小岩井会会報』に載っている回想記(『賢治歩行詩考』pp.70-71)から拾ってみますと:

「何としても忘れられないのは農場創立記念祭であった。
 農場の人達と合同の運動会、私は小一から高二
卒業まで毎年徒競争で一位。半紙三帖の賞品、一番喜んだのはおふくろであった」

「ボコボコした土に引かれた白線と一生懸命に走っている子供の姿、ゴールのテープの白さと一等、二等、三等の旗を手に、嬉しそうに賞品をもらうみんなの姿、そしてもらった賞品をソットのぞいてみたものです。」

★(注) 高校2年ではなく、高等小学校2年、尋常小学校に6年通ったあと高等小学校を2年修学するのが、当時の庶民が受けた教育でした。

当時、記念祭が近づくと、大人の場員でも「余興準備ニ忙殺セラル、夕余興稽古ヲナス」と記録されているほど楽しみにした行事でした。
まして子供たちは「血が騒ぎ」(岡澤氏)、運動会の練習に学校へ行くにも、

「はしったりうたったり
 はねあがったり」
(「パート4」116-117,139-140行)

しながら歩いたとしても、決しておかしくはないのです。

賢治が描いている「光の子供ら」は、まさに現実そのままの光景だったのです

【下書稿】から引用しますと:

「  〔…〕
 けれどもやっぱり寂しいぞ。
 口笛を吹け。光の軋り、
 たよりもない光の顫ひ、
 いゝや、誰かがついて来る
 ぞろぞろ誰かがついて来る。
 うしろ向きに歩けといふのだ。
 たしかにたしかに透明な
 光の子供らの一列だ。
 いいとも、調子に合せて、
 いゝか、そら
 足をそろへて。
  Carbon di-oxide to sugar
  Carbon di-oxide to sugar
  Carbon di-oxide to sugar
  Carbon di-oxide to sugar」

「いいとも、調子に合せて、/いゝか、そら/足をそろへて。」は、岡澤氏が想像するように、四ツ森の坂にさしかかった子どもたちが、たがいに「一!二!一!二!」と声を掛け合ったのかもしれませんし、また、運動会で歌う出し物の唱歌を歌ったのかもしれません。

「うしろ向きに歩けといふのだ。」

と言っていますが、後ろから来る子どもたちの姿を認めた作者は、笑いかけてくる無邪気な子どもたちに背を向けることができなくなって、

自分が後ろ向きになって、子どもたちと声を掛け合いながら歩き始めたのだと思います。
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