ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
68ページ/184ページ


3.5.27


D「このひとはもうよほど世間をわたり
  いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
  すましてこしかけてゐるひとなのだ」
(小岩井農場,パート1)

賢治は、少年の感性を失って、権力社会を構成する機械部品となってしまうことを、このような「青黒い」イメージで考えていたのです。

. 春と修羅・初版本

96それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……

天沢退二郎氏は、

〔↑この──ギトン注〕文句(あえて詩句とよばない)は一瞬ぼくらをたじろがせる。『青黒い』という形容詞は賢治にとってあの寒々とした異次空間=詩空間の唯一の感覚的エピテート〔épithete: 付加的形容語──ギトン注〕として詩人を引き寄せると同時に恐怖させるもののはずだ。その恐るべき彼方の接近を示すもののはずだ。」(「『春と修羅」研究U」,p.55)

と指摘しています。

賢治詩の中では、上記の「青びとのながれ」や『疾中』詩篇の「ながれたり」に列なる最果ての空間を指しているのだと思います。

しかし、ここでは、作者は、

97そんなさきまでかんがへないでいい

と自分に言って、想像を打ち切り、

98ちからいつぱい口笛を吹け

と、気をとりなおそうとするのですが、浮かぶ詩句は、

_99口笛をふけ 陽の錯綜
100たよりもない光波のふるひ

となって行って、
作者の心情は、不安にぐらぐらと動揺し続けます。

しかし、その不安こそが、作者を“詩の彼方”へ引き寄せるものなのかもしれません。

もっとも、
「陽の錯綜…光波のふるひ」は、現実の周囲の風景描写に戻っています。上空の雲の動きや、地上の陽炎によってゆらゆらと揺れる明暗の錯綜した風景です。

そして、101行目からは、一転して躍動した明るい風景が描かれて行きます。
それは、100行目までに述べられていた作者の中の不安が引き寄せた世界かもしれませんが、それにしては、あまりにも一転した明るさです:

101すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
102ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
103またほのぼのとかヾやいてわらふ
104みんなすあしのこどもらだ
105ちらちら瓔珞もゆれてゐるし
106めいめい遠くのうたのひとくさりづつ
107緑金寂静のほのほをたもち
108これらはあるひは天の鼓手、緊那羅のこどもら

この転換について、天沢氏は、

「『それからさきがあんまり青黒くなってきたら……』という文句〔…〕ひとたび突き当ててしまった言葉の恐ろしさが詩人の背後にひきよせたもっと不安な徴候としての幻想──『すきとほるものが一列わたくしのあとからくる』──も、もはや、詩人を不安にするどころか、ぼくらのほうを不安にするまでにかれの陽性をかりたてるのだ」
(『「春と修羅」研究U』p.55)

と述べておられます。

天沢氏をはじめ、従来の賢治研究では、この「すきとほるものが一列」「すあしのこどもら」を、賢治の空想だと考えていたために、この・いきなりの転換の理由が分からなくなっていたのだと思います。

.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ