ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.5.3


. 春と修羅・初版本

07さつきの光澤(つや)消けしの立派の馬車は
08いまごろどこかで忘れたやうにとまつてやうし。

「さつきの光澤(つや)消けしの立派の馬車」とは、駅前で「オリーブのせびろ」の紳士を乗せた客用馬車です。
いま賢治の視界にはありませんが、賢治より先に農場へ向かって行きましたから、すでに《本部》に到着して“オリーブの紳士”を降ろし、馬は馬車からはずされて、《本部》の200〜300m西方にあった《乗馬厩舎》へ、馬車は《本部》裏手の客馬車倉庫へ入れられているはずです(『賢治歩行詩考』p.41)

「観測台」に続いて、忘れられたように寂しそうに倉庫に入れられている客馬車が、作者の《心象》に現れています☆

☆(注) 用の済んだ客馬車は倉庫に入れられるという当時の農場の事情を、賢治は知っていたのでしょうか?「どこかで‥とまつてやうし」と言っているところをみると、知らなかったのだと思います。当たり前のことですが、いくら《心象スケッチ》は目の前の現象に限定されないとは言っても、作者が知らない状況までが、千里眼のように見えてしまうわけではないのです。“現象”とは、思いなしにすぎません。しかし、そうした“現象”を、現前する実在と、想像や回想の区別無く提示する《心象スケッチ》の構造は、深刻な問題をはらんでいるかもしれません。「風景やみんなといっしょに‥明滅しながら」(「序詩」)と言いつつ、結果的には作者のひとりよがりに終ってしまうきらいがなくはないからです。“ひとりよがり”に陥らないように、他者との相互主観、共同主観に近づいてゆく方法が、《心象スケッチ》の中に含まれていたのかどうかが重要ですが‥、それはあまり期待できないように思われるのです。その意味では、保阪との“訣別”に至ることとなった原因を、この段階で、賢治は、なお引き摺っていたと言うべきかもしれません。

つづいて、「五月の黒いオーヴアコート」が出てきます。

09五月の黒いオーヴアコートも
10どの建物かにまがつて行つた

この部分は、【下書稿】では、次のようになっていました:

「黒いオーバアの人はもう見えない
 きっと本部のどの建物かにはひったのだ。
 あたりまへだが少しさびしい。」

前にも述べたように、作者は、この立派ななりの医者らしい人に、(ややアンビヴァレンツな)親しみを抱いているので、その姿が見えなくなったことが、「少しさびしい」と感じるのです。
推敲後の《初版本》では、表現は切りつめられて、この人物への作者の執着が感じられない表現になりました。

「きっと‥のだ」が削られて、あたかも旧網張街道から曲がって行くのを、見ていたかのように書かれています。
しかし、じっさいには、賢治は、後ろの「もつと遠く」を歩いていた・この医師の行方を見ていなかったと思います。加藤医師ならば、途中の《医局》に入った可能性もあるのです。
ともかく、推敲によって、この厚着の人物の動きも《心象》の一部になりました。

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