ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.4.11
何か、思い当たる記憶があるのだけれども、どうしても思い出すことができない‥
忘却の底から記憶を引き出すことができない焦燥の気持ちが、
白々しく光る四角い木箱によって、暗示されているのだと思います。
馬挽きが、「なにか忘れものでももつてくるといふ風」だというのも、やはり、暗に作者の《忘却》を示しているのだと思います。
作者は、この老馬「ヘングスト」の歩み出しのシーンに続けて、何かを思い出して書こうとしたのかもしれません。しかし、書こうとしたことがらは、《忘却》のかなたに沈んでしまって、出て来ないのです‥
あるいは、《忘却》のかなたにある記憶を手繰り寄せようとして、もがいているのは、老馬なのかもしれません。
かつての栄光の記憶なのか?
それとも、あきらめきれない生涯の伴侶のことなのか?‥
. 春と修羅・初版本
67櫻の木には天狗巣病がたくさんある
68天狗巣ははやくも青い葉をだし
ソメイヨシノは、天狗巣病に弱いのが欠点です。
「天狗巣病」は、樹木の病気で、小枝が異常に繁殖して箒や鞠のかたちの塊ができてしまいます。また、花が咲かなくなるなどの症状を伴います。
桜の天狗巣病は、タフリナというカビの一種がついて、樹木がホルモン異常を起こすことによって起きます。
ソメイヨシノは、葉が出る前に花が咲くので、花の満開が盛大に見えます。そのために、他のサクラの品種をおさえて、これほど広く植えられたのです。
ところが、天狗巣病にやられると、病巣になった繁みは、花が咲かないで葉だけが先に出てしまいます。そのため、満開した桜の木のなかで、そこだけが黒っぽい塊に見えます:画像ファイル・天狗巣病
賢治は、天狗巣病の枝に近づいて観察し、葉が出ているのを確かめています。
69馬車のラツパがきこえてくれば
70ここが一ぺんにスヰツツルになる
「スヰッツル」はスイス(英語:Switzerland)のこと。
「馬車のラッパ」は、小岩井農場の場内を走っている軌道式の《馬トロ》が、停車場に近づいた時に鳴らす笛を指しています。じっさいには、トランペットやホルンではなく、豆腐屋の笛(チャルメラ)だったそうです(『賢治歩行詩考』,pp.34-35):写真 (q)
このパッセージは、【下書稿】では、
「馬車の笛がきこえる、
石版画を持って来る。
それから私のこゝろもちはしづかだし
どうだらうこゝこそ天上ではなからうか
こゝが天上でない証拠はない
天上の証拠は沢山あるのだ」
となっていました。「石版画」は、スイスのアルプス風景を描いた西洋の版画でしょうか?……
たとえば、こちらのブリューゲルのような:画像ファイル・「大アルプス風景」
あるいは、「天上」を描いたもの??
いずれにしろ、「馬車の笛」を聞いて、賢治の眼には、スイスのような風景が展開したのです。
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