ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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3.4.10
ハクニーは、もう何度か出てきましたが、
イギリスで改良された品種で、脚を高く上げて馬車を引く優雅な仕草で知られる・馬車用の最上級馬種。優雅なだけでなく、馬車を挽いて走るだけの頑健性と持久力があり、また、軍馬として騎馬戦に耐える勇気があります:画像ファイル・ハクニー
皇族・高官の送り迎えか軍馬として活躍していたハクニーが、年とって払い下げられ、こんな岩手の片田舎で生木の丸太を運ぶ仕事をさせられている‥
. 春と修羅・初版本
53(おい ヘングスト しつかりしろよ
54 三日月みたいな眼つきをして
55 おまけになみだがいつぱいで
56 陰氣にあたまを下げてゐられると
57 おれはまつたくたまらないのだ
58 威勢よく桃いろの舌をかみふつと鼻を鳴らせ)
「ヘングスト」は、ドイツ語で牡馬のことですが☆
辞書を見ると、“女を追いかける男”という隠語の意味もあります。
☆(注) ドイツ語では、一般的に馬を表わす Pherd のほかに、去勢していない牡馬(つまり種馬) Hengst, 去勢した雄馬 Wallach, 牝馬 Stute, 仔馬 Fohlen とそれぞれ呼び名があります。
ともかく、賢治は、脚光を浴びて活躍していたハクニーが、落ちぶれて目に涙をためている、その気の毒なありさまを描いているのです:
59ぜんたい馬の眼のなかには複雑なレンズがあつて
60けしきやみんなへんにうるんでいびつにみえる……
零落して僻(ひが)み、涙を溜めた馬の眼には、周りの物はみな、「へんにうるんで」ひずんだ形にしか見えません。
これを、作者のほうから見ると、「三日月みたいな」悲しげな「眼つき」に見えるのです。
そして、休憩中に、1頭だけ勝手に動き出したのは、
かつての栄光を思い出して、ハクニー歩様であゆんでみたのかもしれませんし、
たんに耄碌して、自制が利かなくなっているのかもしれません。
53(おい ヘングスト しつかりしろよ
〔…〕
56 陰氣にあたまを下げてゐられると
57 おれはまつたくたまらないのだ
58 威勢よく桃いろの舌をかみふつと鼻を鳴らせ)
という部分には、老馬に対する作者の同情があふれています‥
ところで、66行目には、奇妙な書き加えがあります:
66なにか忘れものでももつてくるといふ風…(蜂凾の白ペンキ)
ここは、【下書稿】では、
「何か忘れ物でも持って来るといふ風だ。」
とだけ書かれ、そのあとに、原稿用紙3分の2の余白があけられているのです。
賢治は、ここに、かなりの長さの詩句を書き足す予定だったのでしょう。
しかし、書き足されず、その代りに、「…(蜂凾の白ペンキ)」とだけ書かれたのです。
「蜂凾(はちばこ)」は、蜂の巣を入れた養蜂の木箱ですが、白いペンキが塗られた「蜂凾」が、陽を照り返して光っている──叙景としては、それだけのことです。
しかし、↑上記のような推敲の経緯から考えると、この「蜂凾の白ペンキ」には、何か意味があると思わなくてはなりません。
ギトンが思うには、
白い箱が光っている様子は、《忘却》の象徴です。
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