ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.4.7


おそらく、賢治自身の気持ちとしては、時と場所に限定されたさまざまな《パースペクチヴ》ではなく、むしろ観測者の条件によって限定されない“ほんとうの”世界を観照したかったのだと思います。
少なくとも、『春と修羅』以前の時期、…あるいは、1921年の保阪との“訣別”によって躓く以前の賢治は、そうした観念的な・いわば天上的認識を望んでいたのだと思います。

しかし、農学校教師を始めてから、賢治は、言わば無理やり地上の生活と認識に直面することになったのです☆

☆(注) 稗貫農学校に就職したばかりの1921年12月の保阪宛書簡にある「何からかにからすっかり下等になりました。」は、そのことを言っているのではないかと思います。なお、21年に“訣別”という事件があったとする通説には疑問がありますが、何らかの躓きとなる体験があって、宗教観念から解き放たれたことは、まちがえありません。⇒いんとろ【8】たったひとりの恋人:保阪嘉内

そこで、日常見える周りの風景についても、《パースペクチヴ》が──つまり、見る者の時と場所に限定された“見え”が、非常に気になるようになったのだと思います。
自分は、ほんとうは、そうした偶然の“見え”に、つまり‘仮象’に制限されたくはないのだけれども、
じっさいに、そのときどきの《パースペクチヴ》しか、自分には見えない──どうしても、そう見えてしまうのだから「しかたない」──そう思ったのではないでしょうか?

それは、かつて、『法華経』を“唯一の経典”と崇めて帰依していた賢治からすれば、
自分は堕落したように思われたにちがいありません。

しかし、賢治のこの変化は、文語の短歌群や、半・文語的な連作短詩『冬のスケッチ』から、『春と修羅』の口語詩に移った作品形態の転換にも、関係すると思います。

また、《パースペクチヴ》に限定されない見方を欲する気持ちから、
幽体剥離のように、認識主体(霊魂)だけが自分の身体を離れて、認識対象(風景)の中へ飛び込んでゆくような《心象スケッチ》が、
第4章の「林と思想」などに現れるのだと思います。

つまり、賢治は、1921-22年の段階では、自分が
《パースペクチヴ》的な地上の見方に馴れ親しんできたことを、堕落として受け止めているのですが、

やがて、1924年1月に『春と修羅』《初版本》の「序詩」を書いた段階では、むしろ逆に、《パースペクチヴ》的な見方に現れる・なまの現象のほうを優位に置くようになっています。そして、

「これらについて人や銀河や修羅や海膽は
 宇宙塵をたべ、または空氣や鹽水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」
(「序詩」)

と言い切るのです。

. 春と修羅・初版本

40荷馬車がたしか三臺とまつてゐる
41生な松の丸太がいつぱいにつまれ
42陽がいつかこつそりおりてきて
43あたらしいテレピン油の蒸氣壓
44一臺だけがあるいてゐる。
   〔…〕
50この荷馬車にはひとがついてゐない




『賢治歩行詩考』(pp.32-34)によると、この3台の荷馬車は、間伐した防風林の松材(アカマツ)を積んで運んでいるところだったようです。伐採されたばかりの丸太に陽があたって、松脂や精油の匂いが放散しています。

テレピン油(テレビン油)は、マツ科の樹木や松脂を乾留、水蒸気蒸留して得られる精油で、塗料、ワニスの溶剤、医薬品の成分として使われます。
油絵に使う“うすめ液”は、松脂の水蒸気蒸留によるテレビン油です。特有の芳香があります。

テレビン油の芳香は、主成分ピネン★の匂いです。

★(注) ピネンは、柑橘類の芳香成分リモネンや、薄荷に含まれるメントール、クスノキの精油カンフル(樟脳)、そして天然ゴムなどとともに、テルペン類(炭素数が10または5の倍数になる炭化水素のグループ)のひとつです。

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