ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
19ページ/184ページ


3.3.3


前ページの GIF 画像で見ると、“ブラウン運動”は、ウジムシの歩行のようなのろのろした運動です。数学的シミュレーションのほうが、端末によっては高速になるので、そらで囀り飛行をするヒバリに近いかもしれません。(携帯の方ごめんなさい。両ファイルとも700KB以上です)

. 春と修羅・初版本

16そらでやる Brownian movement
17おまけにあいつの翅(はね)ときたら
18甲蟲のやうに四まいある
19飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と
20たしかに二重(ふたへ)にもつてゐる

カブトムシのように、「飴いろの」薄翅と、茶色の翼の・二重の羽を持っていると言っていますが、
日に照らされて高速ではばたく上空のヒバリを、下から見ると、全体がシルエットに見えますから、‘二重の羽’のカブトムシに見えるのかもしれません。

21よほど上手に鳴いてゐる
22そらのひかりを呑みこんでゐる
23光波のために溺れてゐる

「光波」は、エーテルのような透明な軽い液体、岸に寄せる波のイメージでした。ヒバリは、「光波」の海で、「ひかりを呑みこんで」「溺れてゐ」ます。ここで「光波」が出てきたのは、アインシュタイン理論に関係する“ブラウン運動”からの連想だと思います☆

☆(注) アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)は、1905年に、ブラウン運動、特殊相対性理論、光量子仮説に関する各論文を立て続けに発表しました。ブラウン運動については、アインシュタインの数学的定式化によって、ブラウン運動は原子の存在を確証していることが明らかになりました。光量子仮説は、光が波動ではなく光子の運動であることを明らかにしたものです。宮沢賢治の「Brownian movement」→「光波」という連想は、アインシュタインの理論がよく分かっていないようにも見えますが、彼は遅くとも1922年11月の来日を契機に頻出した啓蒙記事を読んで、相対性理論については十分な理解を持っていたと思われます:秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,2004,朝文社,pp.338-349.

24もちろんずつと遠くでは
25もつとたくさんないてゐる
26そいつのほうははいけいだ
27向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える

26行目の「そいつのほう」は、遠くで啼いているヒバリたちでしょう。

作者がさっきから観察していた近くの空のヒバリが、遠くのヒバリたちから見ると「ひどく勇敢に見える」のは、なぜでしょうか?

ギトンは、このヒバリ──「こつちのやつ」──は、「光波」をかぶって溺れているからだと思います。つまり、「こっち」のヒバリは、「そらの光を呑みこみ」「光波」に溺れながら必死で囀っているのです。

この状況は、長詩「小岩井農場」と同日付のスケッチ断片〔堅い瓔珞は…〕のモチーフに繋がって行くように思われます:詩ファイル〔堅い瓔珞は…〕

たしかに長詩「小岩井農場」は、最初の構想では、ベートーヴェンの交響曲を模した管弦楽曲のような歩行スケッチ詩として開始されたのだと思います。しかし、スケッチが進行し、書き溜められたスケッチメモを整理再考しているうちに、一部の内容は発展して、単なる歩行スケッチの枠を超えてしまったのだと思うのです。

そうして、一部の内容は、「小岩井農場」から独立して、別の作品(群)になって行ったのではないでしょうか?別の作品群が成立したために、それらが出て行った場所は、「小岩井農場」では穴になってしまった‥‥それが、「パート8」が書かれなかった理由だと思います。

のちほど説明しますが、ギトンは、詩断片〔堅い瓔珞は…〕や散文断片〔みあげた〕は、そうして独立して行った作品群の破片だと思うのです。

そして、ここ「パート2」で、すでに、断片〔堅い瓔珞は…〕につながって行くモチーフが現れているわけです。ここではまだ、“瓔珞をつけた天の子どもたち”は、ヒバリの姿をしています‥

さて、ここでちょっと写真を見ていただきますと‥、作者がいま歩いている大清水付近は、現在でもひろびろと水田が広がった平地で、ヒバリが「そらでやる Brownian movement」を繰り広げていたというのも、よく分かる気がします。もっとも、当時は水田はなく、いちめん火山灰地の原野だったと思われます:写真1 大清水

次の

28うしろから五月のいまごろ

以下は、諸家の解釈で取りあげられている重要論点ですので、ページを改めて検討したいと思います。
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ