ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.8.11


. 雁の童子

「須利耶さまは童子をふりかへりました。そしたら童子はなんだかわらったまゝ、倒れかかってゐられました。須利耶さまは愕[おど]ろいて急いで抱き留められました。童子はお父さんの腕の中で夢のやうにつぶやかれました。
(おじいさんがお迎ひをよこしたのです。)
 須利耶さまは急いで叫ばれました。
(お前どうしたのだ。どこへも行ってはいけないよ。)
   〔…〕
 人々が集まって口口に叫びました。
(雁の童子だ。雁の童子だ。)

 童子はも一度、少し唇をうごかして、何かつぶやいたやうでございましたが、須利耶さまはもうそれをお聞きとりなさらなかったと申します。」

もともと、この童子は、空を飛んでいて撃ち落された6羽の雁に付いていた子供の雁で、雁たち(実は天人の生れ変り)が昇天する間際に人の子供となって須利耶に託されたものでした:

「雁の老人が重ねて申しますには、
(私共は天の眷属でございます。罪があってたゞいままで雁の形を受けて居りました。只今報ひを果しました。私共は天に帰ります。たゞ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願ひます。おねがひでございます。)と斯うでございます。」

童子は、砂の中から発掘された「三人の天の童子」の壁画を見たとたんに、「おじいさんがお迎ひをよこしたのです」と言って事切れてしまいます。

『雁の童子』は、‘天人の落下’のモチーフに基づく作品です。

童話の初めに、6羽の雁の姿をした天人が撃ち落される場面は、まさにそうです。

しかし、陽炎の中をゆらゆらと漂うように「天の子供ら」の魂が舞い下りて来る「〔みあげた〕」とは異なって、『雁の童子』の場合には、弾丸を受けて撃ち落され、燃えながら墜落するという苦痛と恐怖を伴う落下です。

その点で言えば、むしろ、「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」と近い関係にあります。
したがって、『雁の童子』は、次節「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」の中で、もう一度取り上げることにしたいと思います。

ともかく、「小岩井農場」と同じ日付の「〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕」、及び↑上の4篇の童話作品は、同じ《10/20原稿用紙》を使って書かれており、ほぼ同じ時期に書かれたものと思われます。

その時期は、「小岩井農場」【下書稿】と「〔みあげた〕断片」よりも少し後、1922年後半〜1923年ころ、つまり、『春と修羅』《初版本》がまとめられるより前と考えられます。


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