ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.20


しかし、その冷たい空から、落ちて来た雫は、澄んだ明るさで地上を満たすのです。水滴に触れて、焚き火の炎も透き通ってゆくようです:

. 春と修羅・初版本

121すきとほつて火が燃えて[ゐ]る
122青い炭素のけむりも立つ

人はみな、静かに眠っているような落ち着いた気分になります。

激しく動く空と、静かな雨。
初夏の驟雨は、そんなものではないでしょうか。

115ひとりのむすめがきれいにわらつて起きあがる
   〔…〕
117 《うな いいおなごだもな》
118にはかにそんなに大聲にどなり
119まつ赤になつて石臼のやうに笑ふのは
120このひとは案外にわかいのだ

さきほど「わかい農夫」と呼んでいたのに、ここでまた、「案外にわかいのだ」と言うのは、論理的には変ですが、‥目覚めた少女の美しさに見とれて、思わず自分が口走った言葉に、顔を耳まで真っ赤にしている様子が、「案外若いぞこの男は」(下書稿)と作者に思わせたのです。赤ら顔で太っているので(105行目)、世慣れた陽気な若者に見えたのですが、中身は中学生のようにウブで繊細なようです。

124 《おらも中(あだ)つでもいがべが》
125 《いてす さあおあだりやんせ》
126 《汽車三時すか》
127 (三時四十分
128  まだ一時にもならないも)
129火は雨でかへつて燃える

【下書稿】では、

「火は雨の中で却って燃える。
 〔……〕
 それでもおれの黄色の上着はずんずんぬれ
 たき火もときどきピチピチ云ふ。」

科学の法則とは別に、
《心象世界》の因果関係としては、降ってきた雨の“透明なしずく”が、焚火の赤い焔を、しずかに燃え立たせているのです。

130自由射手(フライシユツツ)は銀のそら
131ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす
132すつかりぬれた 寒い がたがたする

↑これが「パート7」の末尾です。

「威銃」のハンターと「ぶどしぎ」は、“焚火”の場面の間は登場していませんでしたが、相変わらず、争い合うように活動しているのです。

「寒い がたがたする」は、作者が“中生代の爬虫類に襲われる夢”などを見て目覚めた時の状態です。夢から現実に戻った瞬間を表現するモチーフだと思います。

1925年5月10日の宮澤賢治との夜間山行を記した森惣一の回想記に:⇒3.6.36

「岩手山から降りてくるその空気はつめたく、どうしても深く眠ることができず、うつらうつらとしていた。あおむいて寝ると、腹の方がつめたく、うつむいて寝ると、背中の方が寒いのであった。
   〔…〕
 二人同時に、一本ずつとなり合った松の根元から立ちあがって夜の底をまた歩き出したとき、宮沢さんが、今しがたうつらうつらして見た恐ろしい夢を話した。」

とありました。この時のことを、賢治の書いたスケッチのほうで見てみますと:

「わたくしが眼をさましてみれば
 ここはくらかけ山の凄まじい谷の下で
 雪ものぞけば
 銀斜子の月も凍って
 さはしぎどもがつめたい風を怒ってぶうぶう飛んでゐる
   〔…〕
 さはしぎは北のでこぼこの地平線でもなき
 わたくしは寒さにがたがたふるえる
   〔…〕」
(〔つめたい風はそらで吹き〕【下書稿】,#335,1925.5.10.)

「さはしぎ」は方言でアオシギのこと。オオジシギ(ぶどしぎ)の近縁で、同様の凄まじい啼き声を立てて飛びます。

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