ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.19


. 春と修羅・初版本

115ひとりのむすめがきれいにわらつて起きあがる
116みんなはあかるい雨の中ですうすうねむる
117 《うな いいおなごだもな》
118にはかにそんなに大聲にどなり
119まつ赤になつて石臼のやうに笑ふのは
120このひとは案外にわかいのだ
121すきとほつて火が燃えて[ゐ]る
122青い炭素のけむりも立つ
123わたくしもすこしあたりたい

 



この『春と修羅』の初めから、これまでに、これほど美しい場面描写があったでしょうか?

天沢退二郎氏は、《雨》の開始が、作者の意識と作品世界にもたらした影響について、次のように指摘しておられます:

「このパートから詩が明らかに異質な空間へ入ってきたのは、〔…〕さっきから降りつづけている雨が詩人の意識に及ぼしはじめた根源的影響によるものであることは今や否定しがたいのだ。〔…〕詩人は全身濡れそぼつことによってようやく、降り来るもののアンチームな
〔intime(仏):内的な,内心の,親密な──ギトン注〕享受からくるのびやかな自由感を獲得したのである。〔…〕

〔…〕この澄明さは、パート七を通して、今の『すきとほる雨のつぶ』[2行目]をはじめとして『トツパースの雨の高み』[17行目]、『あかるい雨』[116行目]というふうにさりげなく繰り返し強調されている。このような澄明な雨の性質
はこのパート全体を通じて詩人がえらびとる語を澄明にし、詩句を澄明にしていく。」(「小岩井から……小岩井へ……」,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究U』,pp.65-66)

「これら雨の澄明度・詩意識の深度に加えての奇妙な文体のやすらかさは、いまいっとき雨が作中世界につくりだした空間の住人たちの共同体に対応している。詩人の対他意識の開放された自由な振幅にとらえられた老農夫との対話やわかい農婦たちへの眼差し、火にあたりながらの若い農夫との対話など、パート七にいたって初めて導入された人間同士の交情
は、この、雨がいっとき現出させた共同体意識の幻を確認するものである。〔…〕濡れることを怖れていたのに、こうして雨の中へ身を託してしまえば、幻化の城のやすらぎが言葉をひたす。」(同,p.68)

☆(注) ただし、雨が降ってくる空には、「縮れてぎらぎらの雲」(16行目)、「うしろのつめたく白い空」(41行目)、「雨をおとすその雲母摺りの雲」(43行目)、「けわしく翔ける鼠いろの雲ばかり」(53行目)、「ぐらぐらの空」(65行目)、「銀のそら」(130行目)と、“輝く暗黒”のイメージが現れています。

★(注) ギトンは、やや意見が違います。「パート4」の・小学生の集団との交歓も、最後は作者を幻想に没入させはしますが、もともと「人間同士の交情」から始まっていることは、まちがえないと思うのです。むしろ、ここ「パート7」での“交情”は、天沢氏も「いっとき現出させた共同体意識の幻」(op.cit.)、「雨がつくりだした共同体もまたいっときのイリュージョンにすぎない」(p.69)と指摘しているように、どこか一時的で不安定なものを感じさせます。例えば、老農夫の「ぐらぐらゆれる」挙動、作者との会話を「はばかつ」ている様子は、逆に、作者の他の人間に対する意思疎通の不安定さを照らし出してもいるのです。

116みんなはあかるい雨の中ですうすうねむる

という一行は、非現実的な(おそらくフィクションの)光景であるだけに、よけい、この場面を引き立たせています。

老農夫との対話の間見えていた空の色や雨雲の動きは、「黒」系の語こそ使われていませんが、見るからに暗く険しいものでした。

おまけに、その重く光る空の下、耕地の小高い‘地平線’には、「射手」が銃を構えて歩き回っています。
馬を外されたカラの荷車が、ロシアの絵画のように、置き忘れられています。

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