ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.2.6


. 春と修羅・初版本

60汽車からおりたひとたちは
61さつきたくさんあつたのだが
62みんな丘かげの茶褐部落や
63繋(つなぎ)あたりへ往くらしい
64西にまがつて見えなくなつた
65いまわたくしは歩測のときのやう
66しんかい地ふうのたてものは
67みんなうしろに片附けた

「繋(つなぎ)」は、小岩井駅から、《七つ森》を越えた南方にあった地域。岩手郡御所村繋(当時)。現在は、地域の大部分が御所ダムで水没し、盛岡市繋と雫石町繋に分かれています。“つなぎ温泉”があります:地図:繋

「丘かげの茶褐部落」と書いていますが、当時、この付近は、やせた火山灰地の寒村で、あちこちの丘の陰に、小さな炭焼きの部落が散在するだけでした。
↑上の「新開地」のスケッチは、そんな寂れた土地で、できたばかりの小岩井駅の前に、急ごしらえの粗末な商店が並んでいるさまを、描いているのです。

作者は、「歩測のときのやう」に、つまり、せかせかと歩いて、駅前の家並を通り過ぎます。

汽車から降りた他の乗客は、

64西にまがつて見えなくなつた

と言っていますが、
駅前を西へ行き、さらに南のほうへ曲がると、《七ツ森》〜繋方面です☆

賢治の進路は、それとは逆に、駅前の商店の間の道を北へ抜け、網張街道(県道131号ではなく旧道)に合流して農場へ向かうものでした★:地図:「小岩井農場」パート1

☆(注) 降りた乗客たちが向かったのは、北の農場方面ではなく、御所村方面の寂れた「茶褐部落」のほうへ消えて行ったと言いたいのです。儀府成一『人間宮澤賢治』,1971,蒼海出版,p.24 参照。

★(注) 『賢治歩行詩考』,pp.26-27,30-31.

ところで、賢治は書いていませんが、『賢治歩行詩考』p.18 によると、1922年当時、雑貨・食品店の隣には乗合自動車業(タクシー)の店があったそうです。賢治は、無料の馬車には乗りたいと思っていましたが、自分でお金を出してタクシーに乗る考えは、まったくなかったことが分かります。
じっさい、このタクシーは、乗る人がいなかったので2〜3年後には廃業したそうです。

68そしてこここそ畑になつてゐる
69黒馬が二ひき汗でぬれ
70犁(プラウ)をひいて住つたりきたりする
71ひわいろのやはらかな山のこつちがはだ

駅前の商店を過ごしたあとは、新緑の丘とその麓の畑に目が行きます。
当時は、駅から農場入口までは、大部分が原野だったので、畑を作っているところは目立つのです。それで、「此処こそ畑になってゐる」と言っています。

「ひわいろ」は、明るい黄緑色。小鳥のヒワの体色:画像ファイル・ひわいろ

72山ではふしぎに風がふいてゐる
73嫩葉(わかば)がさまざまにひるがへる
74ずうつと遠くのくらいところでは
75鶯もごろごろ啼いてゐる

作者は風を感じないのに、丘の木々は若葉を翻して、風のあることを伝えてきます。

鶯のさえずりを「ごろごろ」と表現するのは賢治特有ですが、暗い繁みで啼いているようすに、この低音に響く声が重なってきます。
じっさいに、作者は、遠くの繁みから響いてくる小鳥のさえずりに、この「ごろごろ」というウグイスの“低音”を聴き分けているのだと思います。

75鶯もごろごろ啼いてゐる
76その透明な群青のうぐひすが
77 (ほんたうの鶯の方はドイツ讀本の
78  ハンスがうぐひすでないよと云つた)

76行目では、暗がりのウグイスを「透明な群青のうぐひす」と言っています。「群青」は、ややくすんだ深みのある青色です:画像ファイル・群青

暗がりの「鶯」は、「ごろごろ」と胸の底をえぐり出すような声を震わせながら、「群青」色になり、暗く透きとおってしまうのです。。。

この“遠くのウグイス”は、畑のうしろの「やはらかな山」の明るい「ひわいろ」、さらには、馬車に乗って「ひらつと」作者を追い越して行った紳士の「オリーブのせびろ」と対比されていることに注意すべきです。
77-78行目の字下げ括弧書き行が、この対比に込められた作者の思い入れを明らかにしてくれるのです‥

「ドイツ讀本の/ハンス」とは、デンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが考えられます。
「群青のうぐひす」の正体を見極めるには、アンデルセンを調べる必要がありそうです…
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