ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.7.2


. 春と修羅・初版本「パート7」

08こヽはぐちやぐちやした青い湿地で
09もうせんごけも生えてゐる
10(そのうすあかい毛もちヾれてゐるし
11 どこかのがまの生えた沼地を
12 ネー将軍麾下の騎兵の馬が
13 泥に一尺ぐらゐ踏みこんで
14 すぱすぱ渉つて進軍もした)

湿地の様子から、「どこかの蒲(がま)の生えた沼地」を想起していますが、

それは、じつは、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に描かれたワーテルローの戦闘が行われた窪地のことなのです。

12行目以下に、

「ネー将軍麾下の騎兵の馬が…」

云々と書いてあるので、ワーテルローだと分かるのですが、

『レ・ミゼラブル』を原作で読んだことのない人には、何のことか分からないでしょうから、すこし道草をして説明しておきたいと思います:画像ファイル:ネー元帥

以前に検討した『真空溶媒』で、“テナルディエ軍曹”☆に触れたのを覚えているでしょうか?‥賢治は、『レ・ミゼラブル』を、詳しく読んでいることが分かります。

☆(注) ちなみに、テナルディエが“戦場の追い剥ぎ”を働いて、宿屋を始める資金をせしめるのは、このワーテルロー会戦で倒れた将軍からです。

ワーテルローの戦い★で、ネー元帥の騎兵が窪地を通過する問題の箇所は、『レ・ミゼラブル』・第2部「コゼット」・第1編「ワーテルロー」・第9章にあります。

★(注) “ワーテルローの会戦”は、ナポレオン最後の決戦。ナポレオン率いるフランス軍は、オランダ、イギリス、プロイセン(北ドイツ)を相手に戦って大敗しました。この敗戦によってナポレオンの没落は決定的となり、大西洋のセント・ヘレナ島に流配され、二度とヨーロッパに戻って来ることはありませんでした。ワーテルロー(現在ベルギー)は、この会戦でイギリス軍が本営を置いていた場所でして、実際の戦場となったラ・ベル・アリアンス、ウーグモン、モン・サン・ジャン、ラ・エー・サントなど(これらはみな荘館のある場所)は、そこから1〜数km離れていました。

前提的なところから少し説明しますと、

フランス皇帝ナポレオンは、1812-13年のロシア遠征に失敗して退却した後、クルム、ライプツィヒの戦いで敗北し、1814年失脚して地中海のエルバ島◇に追放されます(王政復古)

◇(注) エルバ島ではまだ、ナポレオンは、そこの領主という名目でしたから、警備も薄く、列国の目を盗んで脱出することができたのです。

しかし、戦勝した列国がウィーン会議で揉めている最中に、1915年ナポレオンはエルバ島を脱出し、マルセイユからフランスに上陸。迎え撃つはずのフランス軍は、みなナポレオンに寝返ってしまったので、ナポレオンは、すんなりとパリに戻って、皇帝に復位。
列国軍は、あわててフランスに向かいます。
ナポレオンのフランス軍は、ベルギーのワーテルローで、イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍を迎え撃って、大敗し◆、ナポレオンはイギリスに投降してセント・ヘレナ島に幽閉されます。

◆(注) ナポレオンは、英蘭連合軍と、プロイセン軍を引き離して、個別撃破する戦略でしたが、ワーテルローで英蘭軍との戦いが長引いている間に、プロイセン軍が予想より早く到着したために、フランス軍は総崩れとなって退却しました。しかし、ユーゴーは、共和国派(王政復古にもナポレオン帝政にも反対)なので、ナポレオンには批判的で、ワーテルローの敗因を、ナポレオンの見込み違いと、指揮官ネー元帥の失策のせいに帰しています。

ネー元帥は、ナポレオンから“勇者の中の勇者”と呼ばれた歴戦の猛将でした。

しかし、エルバ島から戻ったナポレオンの配下には、もはや優れた軍事指導者がいなかったために、実戦オンリーで指揮官の器のないネーが、全軍の指揮を事実上委ねられることとなったのです。

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