ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.39


そして、

「たしかに紫苑のはなびらは生きてゐた。」

どうやら、「みんな」とは、シオンの花びらのようです。これに、シオンの花言葉を考え合わせますと、「紫苑のはなびら」は、‘『アザリア』の4人’、その他、遠くに散っている仲間たちを暗に指しているようにも、読めます。

ただ、同じ時期に童話『ひかりの素足』などが書かれていることを考えますと、この──自分で脱いだり、誰かに脱がされたりではなく──夢のように“花の中で全裸になっていた”というのは、宗教的色彩の濃い幻想ではないかという気がします。

したがって、「みんな」──シオンの花びら
も、誰か特定されない観念上の“誰もかれも”、あるいは、作者と等身大の生命すべてではないかと思います。

「小岩井農場」の「松ばやし」の「誘惑」も、こうした性的あるいは“聖性”の幻想とそれへの没入を言っているのかもしれません。

さて、ともかく、その「松ばやし」の中で雨が降り出し、作者は折り返します。

じつは、これは作者が体験した記録ではなく、
この時点、この場所で雨が降り出すのは、フィクションなのです。

のちほど詳しく説明しますが、「小岩井農場」は、作者が農場を訪れた複数の日の“歩行詩作”メモを、モンタージュ手法で組み合わせて、ひとつの農場行のストーリーに仕上げているのです。

作品日付になっている5月21日には、結局雨は降らなかったのです。
作者が雨に降られた農場行は5月7日と思われます。
晴れている「パート1」〜「パート6」は、主に5月21日のメモから、
この《折返し点》から「パート7」〜「パート9」の・雨が降っている詩篇後半は、主に5月7日のメモから構成されていると推定することができます。

「わが索むるはまことのことば
 雨の中なる真言なり」
(「早春」『文語詩稿一百篇』より)

天沢退二郎氏が指摘されるように、“雨”は、宮澤賢治にとって、非常に重要なモチーフになっているようです。

そのモチーフとしての意味は、生涯の各時期ごとに変遷があると思いますが、

↑上の文語詩のような晩年の作者が“雨”に求めた境地も、
この『春と修羅』時代の「まことのことば」、「さかなの願い」、“シオンの花びら”──淀んだ暗い空間に向かって“刀のように”突き進んだすえに開かれる世界が、基にあるのだと思います。





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