ゆらぐ蜉蝣文字


第3章 小岩井農場
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3.6.35


ときおり現れていた伏線を一覧してみますと:

@「小さな澤と青い木こだち
  澤では水が暗くそして鈍つてゐる
  また鐵ゼルの fluorescence」
(「パート3」)

A「けれどもこれは樹や枝のかげでなくて
  しめつた黒い腐植質と
  石竹いろの花のかけら」
(「パート3」)

. 春と修羅・初版本

B「  (空でひとむらの海綿白金がちぎれる)
  それらかヾやく氷片の懸吊をふみ
  青らむ天のうつろのなかへ
  かたなのやうにつきすすみ
  すべて水いろの哀愁を焚き
  さびしい反照の偏光を截れ
  いま日を横ぎる黒雲は
  侏羅や白堊のまつくらな森林のなか
  爬蟲がけはしく歯を鳴らして飛ぶ
  その氾濫の水けむりからのぼつたのだ
  たれも見てゐないその地質時代の林の底を
  水は濁つてどんどんながれた」
(「パート4」)

. 「小岩井農場」【清書稿】

C「鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
  あんまり西に偏ってゐる。」
(【清書稿】第五綴)

D「かなりの松の密林だ。
  暗くていやに寂しいやうだ。
  雲がずゐぶん低くなった。」
(【清書稿】第六綴)

@ABは、【下書稿】までには無かった後からの書き加えです。

Bで、「青らむ天のうつろの中へ/刀のやうに突き進み‥」と言い、

@の暗く鈍った沢水も、
Bでは、濁流になって流れ下っていますが、
まだ作者は、立ち上る水煙を見ているだけで、中に入っては行きません。

しかし、最後に、暗い「松の密林」の中に入り込むと、雨が降り出します:

作者は、「松の密林」の手前で《堰》を越え、
心の奥に封印されていたものに向き合おうとして、

ピネンの芳香に包まれた・新しい木桶の中のような閉ざされた空間に入って行きます。

雨が降りだしたあとは、どうなるでしょうか?

. 「小岩井農場」【清書稿】

「【(私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは

  いま私から 影を潜め)】
   〔…〕
 さあ引っ返すぞ。こんどもやめだ
 おゝい柳沢。
 鞍掛も見えないがさやうなら、
 引っ返せ 引っ返せ」

どうやら、作者がきびすを返して戻り始めたために、“閉ざされた空間”への進入は、そこで中止されたようです‥

作者の心の奥に封印されていたものは、封印を解かれずに、そのまま再び忘却の中に沈んで行くようです。

☆(注) この《折り返し点》までの往路に現れた幻想は、みな上昇してゆく方向を持っていたと思います。その「のぼって行くもの」──上昇志向が、ここで失速しています。そして、「パート7」以降の帰路においては、もっぱら下降してゆくもの──雨も、そのひとつでしょう──が描かれるのです。

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