ゆらぐ蜉蝣文字
□第3章 小岩井農場
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カラヴァッッジョ「洗礼者ヨハネ」
3.6.26
6a7 ひとびとに
おくれてひとり
たけたかき
橘川先生野を過[よ]ぎりけり
6b7 追ひつきおじぎをすれば
ふりむける
先生の眼はヨハネのごとし
野原を歩いている一行よりも少し遅れて、先生の歩いているのが見えたので、追いついて──ということは、賢治はもっと遅れて、後ろから付いて行った?──挨拶すると、先生の振り向いた「眼はヨハネの」ようだった‥
「ヨハネ」は、イエス・キリストに洗礼を施した“バプステマのヨハネ”でしょう。
福音書によると、“バプステマのヨハネ”は、「あの男の首がほしい」と言う后サロメのわがままに応じたヘロデ王によって捕えられ、斬首されたと言います。
つまり、“ヨハネのような眼”とは、死に行く殉教者のような透き通った清い眼──と思われます。
いま、1910年の賢治の父宛て書簡によって、「青柳教諭」との岩手山行の実際を見てみますと:
「〔…〕依って岩手山登山は植物採集にも行きたく[休]暇の二日[続]きたる為網張にも行きたく〔…〕
同行者は嘉助さん、阿部孝さん、私とも一人、外に青柳教[諭]五年の人々六名にて候へき、合計十一人にて登り私共嘉助さん共四人麓の小屋に宿り三合目迠たいまつにて登りこゝにて他の柳澤にとまれる人々は追付き日の出を四合目に見頂上に上り、御鉢参りをしてそれより網張口へ下り大地ごくの噴烟の所御釜噴火口御苗代等を経て網張に至り翌日小岩井をかゝりて帰舎仕り候。」
(1910.10.1.宮沢政次郎宛て、書簡番号1) [ ]は、引用者による誤字訂正。
どうやら、一行は、賢治、嘉助、阿部孝、ほか1名の4人グループと、青柳教諭+5年生6名の7人グループに分かれていたようです。したがって、
「〔…〕野を過ぎりけり」
「追ひつきおじぎをすれば」
は、後ろの下級生グループにいた賢治が、追いついて行って、上級生グループのしんがりを歩いていた青柳教諭の姿を認めた、ということのようです。
父あて手紙に、
「[休]暇の二日[続]きたる為」
と書いているように、1910年は秋分(秋季降霊祭,9月24日)と日曜(25日)が連休になったので、前夜泊+1泊の予定を組んで、網張、小岩井に回ることができたわけです。
ところで、文語詩〔青柳教諭を送る〕に描かれた「青柳教諭」の姿は、まるで殉教者のように、きよらかな感じがするので、…そのせいなのか…
多くの論者は、──「青柳教諭」は、この旅行のあとで急逝した。↑上の文語詩は、早逝した「青柳教諭」を追悼する弔詩である──などと信じていました。
権威ある宮澤賢治年譜にも、
「十月十六日 青柳教諭が亡くなりその告別式があった。」(堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』)
などと記されていたのです。
しかし、資料を調査した結果、この青柳死亡説は誤りで☆、「告別式」とは、退職する青柳先生の送別会のことだったと解明されたのは、小沢俊郎氏でした(「秋雨に聖く」,in:小沢俊郎『薄明穹を行く』,pp.235-260)
☆(注) しかし、この時期に、少年賢治に深い影響を与えた“人の死”は、たしかにありました。盛岡中学校の1年上級で親友だった藤原健次郎が、チフスで1910年9月29日(賢治らの岩手山行の翌週)に亡くなっています。賢治は、後年、藤原健次郎をモデルにした少年を、何篇かの童話に登場させています:⇒1.12.3:童話『谷』
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