ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.12.3


ギトンは、この「痘瘡」「はしか」「紅教」は、(疫病の流行にかこつけたかもしれませんが)若い男女間のセックスの流行や‥、そこまで具体的でなくとも、春の季節を迎えて自然に肢体や表情に横溢する性の迸りを指しているのだと思います。

「流行しだす」というのも、去年流行した、今年流行したということではなくて、
春という季節に──「こゝらの乳いろの春のなかで」──流行するということだと思います。

「痘瘡」が、そういうものを指しているとすると(「痘瘡」は、森佐一の『貌』に寄稿している点からも、そう言えます)、
『第一集』の「谷」も、暗に人間の性、作者の性や性愛観を表現しているようにもに思えるのですが‥

ギトンは、じじつそうなのだと思います。。

清六氏は「妖婆」と言っていますが、「谷」には、「妖女」としか書いてありません。
むしろ、性愛の対象になるような年齢の女性かもしれません。(性愛の対象に見えないのは、作者の‘偏見’の目で見られているからでしょう‥)

賢治には、この詩と同じ題名の『谷』★という童話があります。

★(注) 用紙(「10/20」原稿用紙)から推定される制作年代は、「小岩井農場」の【下書稿】【清書後手入稿】から《印刷用原稿》の前まで、つまり、『春と修羅・第一集』の制作と並行する時期です。筆跡は、その中でも比較的早い時期を指しています。1923年4月の取材による散文『化物丁場』が同じ用紙に書かれています。童話の舞台は9月です。春に詩「谷」を書いた同じ1923年の秋ではないでしょうか。

童話『谷』は、『春と修羅・第一集』と並行する時期に書かれているので、そこから、作者が当時抱いていた“谷”のイメージを知ることができると思います。

. 童話『谷』

「楢渡(ならわたり)のとこの崖はまっ赤でした。
 それにひどく深くて急でしたからのぞいて見ると全くくるくるするのでした。

 谷底には水もなんにもなくてたゞ青い梢と白樺などの幹が短く見えるだけでした。

 向ふ側もやっぱりこっち側と同じやうでその毒々しく赤い崖には横に五本の灰いろの太い線が入ってゐました。ぎざぎざになって赤い土から喰(は)み出してゐたのです。それは昔山の方から流れて走って来て又火山灰に埋もれた五層の古い熔岩流だったのです。

 崖のこっち側と向ふ側と昔は続いてゐたのでせうがいつかの時代に裂けるか罅(わ)れるかしたのでせう。霧のあるときは谷の底はまっ白でなんにも見えませんでした。 」

「私」が尋常小学校3、4年生のころに、「野原でたった一人野葡萄を喰べてゐましたら馬番の理助が欝金の切れを首に巻いて」通りかかり、「蕈(きのこ)のうんと出来る処へ連れてってやらうか。」と言って連れて行ったので、「私」ははじめてその《谷》へ行った。

理助は、口の周りを野葡萄でべっとり染めている私を見て、

「葡萄などもう棄てちまへ。すっかり唇も歯も紫になってる。」

と言う。理助は、

「自分だけ勝手にあるいて途方もない声で空に噛ぶりつくやうに歌って行きました。」

そこは、傾斜のある「柏や楢の林の中の小さな空地」で、すぐそばに《谷》の崖があった。

「はぎぼだしがそこにもこゝにも盛りになって生えてゐるのです。」

「はぎぼだし」はホウキダケの方言:岡澤敏男『賢治の置き土産』 画像ファイル・ホウキタケ

理助は、

「いゝか。はぎぼだしには茶いろのと白いのとあるけれど白いのは硬くて筋が多くてだめだよ。茶いろのをとれ。」

と言って、「私」には茶色くなったホウキダケばかり取らせ、自分は、漬物用だからと言って白いホウキダケを炭俵にいっぱいになるまで獲って持ち帰る。

キノコを採ったあと、理助と「私」は《谷》を見に行く。

「しばらくすると理助はぴたっととまりました。それから私をふり向いて私の腕を押へてしまひました。 」

「私は向ふを見ました。あのまっ赤な火のやうな崖だったのです。私はまるで頭がしいんとなるやうに思ひました。そんなにその崖が恐ろしく見えたのです。
『下の方ものぞかしてやらうか。』理助は云ひながらそろそろと私を崖のはじにつき出しました。」

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