ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.2.13


. 春と修羅・初版本

B41  それに第一おまへのかたちは見えないし
 42  ほんとに溶けてしまつたのやら
@43それともみんなはじめから
 44おぼろに青い夢だやら
A45(いゝえ、あすこにおいでです おいでです
 46 ひいさま いらつしや[い]ます
 〔…〕
@49ふん、水はおぼろで
 50ひかりは惑ひ
 51蟲は エイト ガムマア イー スイックス アルフア
B52  ことにもアラベスクの飾り文字かい
 53  ハッハッハ

Bが、「舞手」が見えなくなったと言って慌てていると、

@の《科学者》の声は、これに応じて皮肉っぽく、
“舞手の踊り”など、初めっからただの「青い夢」だったんじゃないの?‥と、からかいます。

しかし、Aの《詩人》の声は、そんなことはない、造物主たる自然(ナチラナトラ)が産み出した“姫さま”は、ちゃんとそこにいるのだと、答えます。

さて、ここで森鴎外の『舞姫』に話を移したいのですが、

『舞姫』の結末は、次のように書かれています:

「後で聞くと彼女は相沢と会ったとき、私が相沢に与えた約束を聞き、また例の夜大臣に申し上げた承諾を知り、急に椅子から飛び上がって、顔色はまるで土のように、『私の豊太郎は、そこまで私をだましていたの!』と叫び、その場に倒れた。〔…〕私の名を呼んでひどく罵り、髪の毛をむしり、布団を噛むなどし、また急に気が付いた様子で何かを探し求めていた。母親が取って与える物をことごとく投げ捨てたが、机の上にあったオムツを与えたとき、探ってみて顔に押し当て、涙を流して泣いたという。
 これ以後は騒ぐことはなかったが、精神の働きはほとんど全く止まって、その知能は赤ん坊のようになった。〔…〕
 私の病気は全く治った。生ける屍となったエリスを抱きしめて涙を注いだことは幾度になろうか……。〔…〕」
(現代語訳:太田瑞穂氏)

つまり、「私(豊太郎)」が病床で意識を失っている間に、恋人エリスは、「私」の“裏切り”(エリスを捨てて日本に戻ろうとしていること)を知り、発狂してしまいます。そして、、「私」が意識を回復した時には、エリスは、「生ける屍」になっていたというのです。

物語をきれいに終わらせるための強引な幕引きと言えるかもしれません。

たしかに、恋人を「生ける屍」にしてしまえば、物語は印象的な結末を迎えるかもしれませんが、
そのような物語は、はたしてリアルなのか?☆

つまり、“人生の真実”に、どれだけ相渉れるのか‥ということだと思いますが‥

☆(注) じっさいには、エリスのモデルになったドイツの女性は、帰国した鴎外を追いかけてか、その後に横浜港まで来ている──そして、まもなく日本を離れている──という事実が、鴎外の死後に研究者の調査によって判明したそうです。

鴎外の『舞姫』がオペラだとすれば、
賢治の「蠕虫舞手」は、フーガのような小品にすぎませんから、これに、『舞姫』の構想に拮抗しうるようなものを求めるのは、そもそも無理なことなのかもしれませんが‥

たがいに対等な複旋律の絡み合い、“複数の声”の輻輳という手法は、あるいは、鴎外のロマンチシズムと、“理想無き自然主義”を対決させ、そこから新しい解決を見出そうとする試みではなかったかという気がするのです。

そんな眼で、『銀河鉄道の夜』などを読んでみたら、

賢治が謎のように散りばめた手がかりから、
彼も実現し得なかった新たな構想が(なんと言っても『夜』は未完成作品ですから‥)、浮かび上がってくるのではないでしょうか?





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