ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.1.24


「おれ」は、地上に居るはずなのに、次の瞬間には、周りが雲の上の世界となり、海底になり、また次の瞬間には、宇宙空間になってしまう──などということは、この幻想詩では朝飯前なのですから、「これはもちろん/そんなにふしぎなことでもない」(12-13行目)のです☆

☆(注) 同様にして、130-133行目に書いてあった・亜硫酸ガスの気流と硫化水素ガスの気流が反応して、生成した硫黄華が降って来るという話も、火山の噴気孔の下の高温・高圧の地底では、実際にそういう反応が起きているのですから、「おれ」が火山の地下に居ると考えれば、おかしなことではないのです。また、賢治の幻想詩の世界では、空間移動が自在にできるだけでなく、タイムスリップも自在です。80-81行目では、作者の周囲が石炭紀の鱗木の密林に変貌していました。

「零下二千度」というのは、科学的には有り得ない温度ですが★、宇宙空間の低エネルギー状態を大げさに表現した言い方なのでしょう。

★(注) 絶対零度(−273.15℃)より低い温度は有り得ません。なぜなら、絶対零度は、熱がゼロの状態で、熱がマイナスになることはないからです。しかも、実際の宇宙空間は、“真空”と言っても、まったくの真空ではなく、ごく稀薄な素粒子やエネルギーの流れがあります。そして、全宇宙は、《ビッグバン》のなごりである絶対温度2〜3゚K=−275〜6℃程度の《宇宙マイクロ波背景放射(CMB)》という・ごく低い熱エネルギーで満たされています。

したがって、雲が…

197いまは一むらの軽い湯氣になり
198零下二千度の眞空溶媒のなかに
199すつととられて消えしまふ

. 春と修羅・初版本

という「眞空溶媒」とは、宇宙空間の“真空”のことだと思われます。

雲が、大気圏外の真空に吸い込まれて消えてしまうというのは、実際には(地球の重力が雲も大気も繋ぎとめているので)ありえないことですが、おもしろい発想です。

たしかに‥たとえば雲を、大気圏外に“瞬間移動”させたとしたら、あっというまに真空の宇宙空間に拡散して、無くなってしまうでしょう。

つまり、作者のいる地上の空間が、いきなり、大気のない宇宙空間になったとすれば(しかも、雲は浮かんだままで!)、↑↑これは予想できる事態で、科学的にも間違っていないのです。

「溶媒」◇という語ですが、これは、真空の空間に投げ出された物質が、ばらばらになって拡散してしまうことを、“真空に溶けた”と理解して、真空空間を「溶媒」と呼んでいるのでしょう。

◇(注) 「溶媒」とは、いろいろなものを溶かして溶液をつくる液体のこと。たとえば、食塩水は、食塩が‘溶質’で、水が‘溶媒’。なお、真空の宇宙空間に投げ出された物質は、すべてが拡散してしまうわけではありません。宇宙空間は極低温ですから、水、空気などは凝固します。固体は、自分の引力による凝集が拡散力とつりあえば、拡散しないで宇宙を漂います。彗星などは、そうした宇宙の塵の大型のものです。

198零下二千度の眞空溶媒のなかに
199すつととられて消えしまふ
200それどこでない おれのステツキは
201いつたいどこへ行つたのだ
202上着もいつかなくなつてゐる
203チヨツキはたつたいま消えて行つた
204恐るべくかなしむべき眞空溶媒は
205こんどはおれに働きだした
206まるで熊の胃袋のなかだ

雲の次には、「おれ」の持ち物や服が、つぎつぎに“真空”の空間に吸い込まれて消えてしまいます。
このへんになると、もう科学的な想像とは言いがたくなってきますねw
持ち物と服だけが“真空”に溶かされて、人間の身体は溶かされないというのは、あまりにも物語の都合に合わせたファンタジーです。

ともかく、賢治の「真空溶媒」は、科学的な宇宙空間とは少し違っていて、
相手を選んで働いたり(「こんどはおれに働きだした」)、‥あるいは、まずステッキ、次に上着‥、というように、ひとつひとつ引っ掛けて掠め取るようにして働くのです。

「熊の胃袋のなかだ」と言っていますが、まるで、意志を持った生き物のようです。



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