ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.1.23


. 春と修羅・初版本

185葡萄糖を含む月光液は
186もうよろこびの脈さへうつ

「月光液」という表現については、『冬のスケッチ』に次のような箇所があります。樹液を、月の光のように明るくて透明なものとしてイメージしています:

「芽は燐光
 樹液はまこと月あかり」
(『冬のスケッチ』,1葉,§1))

187泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる
188 (もしもし 牧師さん
189  あの馳せ出した雲をごらんなさい
190  まるで天の競馬のサラアブレツトです)
191 (うん きれいだな
192  雲だ 競馬だ
193  天のサラアブレツドだ 雲だ)

「サラブレッド」は、競走用に品種改良された血統馬。軽量で、速く走るのに向いていますが、反面、神経質で物音や閃光に弱く、体質も脆弱です:画像ファイル・サラブレッド

雲の塊が空を飛んで行くようすを、「天のサラアブレツドだ」と言っています。競走馬のように競いながらたくさんの雲が駆けてゆくのでしょう。

この「泥炭」の「保安掛り」のように、
童話の最後の場面で、捕まった‘悪者'が、自分の境遇を忘れて自然の風景に見とれるのは、賢治童話にしばしば見られるパターンです。(『税務署長の冒険』など)

194あらゆる變幻の色彩を示し
195……もうおそい ほめるひまなどない
196虹彩はあはく変化はゆるやか
197いまは一むらの軽い湯氣(ゆげ)になり
198零下二千度の眞空溶媒のなかに
199すつととられて消えしまふ

「虹彩」という語のふつうの意味は、眼の‘ひとみ'の周囲の部分です。しかし、ここでは、空や雲の「光彩」(あざやかな光)を言っているようです。虹色に輝く雲なのでしょうか。

飛んで行く雲と空は、夢幻のようなさまざまな色彩を示し、淡い虹のようにゆっくりと変化して行きます。

そしてしまいには、雲は、薄いひとかたまりの湯気のようになってしまい、奥深い宇宙の中へ「すっと とられて消えてしま」います。

ところで、「零下二千度の眞空溶媒」という表現が出てきましたが、これは、大気圏外の宇宙空間のことを指していると思われます。

さきほど:

178そらの澄明 すべてのごみはみな洗はれて
179ひかりはすこしもとまらない
180だからあんなにまつくらだ
181太陽がくらくらまはつてゐるにもかはらず
182おれは数しれぬほしのまたたきを見る

という“まっ暗な真昼”の描写がありましたが、これは、真空の宇宙空間ならば、科学的に間違ってはいません。

私たちの地球上の昼間が──昼間の空が明るいのは、太陽から来た光線が大気圏上層で散乱されるからです。もし空気がなければ、宇宙の星空がそのまま見えるはずです。
宇宙空間や、月など、大気の希薄な衛星・惑星の上では、太陽が出ていても、星空が見えます。

そのように考えてみると、賢治の言う

179ひかりはすこしもとまらない

を、“散乱も反射もしないで直進する”という意味に理解すれば、178-182行目は、宇宙空間に漂いながら見た眺めとして、すこしも変ではないことになります。

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