ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.1.16


さて、《保安掛り》に、「どうなさいました」と尋ねられたことによって、「おれ」は、自分が倒れて意識を失おうとしている事態に気づきます──気づくというより、《保安掛り》の“誰何”によってはじめて、「おれ」の行き倒れという事態が現出するのです。
なぜなら、《保安掛り》は、「おれ」が行き倒れて追い剥ぎの獲物になることを、望んでいるのですから。。

. 春と修羅・初版本

103あんまりせいが高すぎるよ

は、「おれ」が地面に倒れて相手を見上げている状況を示します。

104 (ご病氣ですか
105  たいへんお顔いろがわるいやうです

という《保安掛り》の言葉は、作者には、単なる親切とは受け取れません。
むしろ、‥夢の中ですから‥《保安掛り》のこれらの言葉によって、「おれ」は倒れる→病気になる→意識を失うという事態が惹き起こされつつあるのです。

そこで、作者は、

106 (いやありがたう

と言いながら、相手を警戒して言います:

107  べつだんどうもありません
108  あなたはどなたですか)

相手が誰何してきたこと、「ご病氣ですか」という呼びかけ(病気であることを望み、病気の行倒れ人に対する自分の役割を用意している)、そして「わたくしは保安掛りです」という自己紹介が、

この人物の持ち物や、その中身を決定します:

110いやに四かくな背嚢だ
111そのなかに苦味丁幾(くみちんき)や硼酸や
112いろいろはいつてゐるんだな

「背嚢(はいのう)」は、背中にせおう袋──つまり、リュックサックやナップザックのことですが、この「四角な背嚢」は、当時の陸軍兵士が身につけていた‘毛皮背嚢'だと思います:画像ファイル・背嚢

この毛皮背嚢は、現在のわれわれの感覚で言うと、リュックサックよりも‘塾ランドセル'に似ていますね。
中に木の枠(フレーム)が入っていて、直方体の四角い形を保持しています。材質は牛の皮ですから、堅くて重量があります。リュックサックのような‘ふくろ'とはまったく違う感じがしますが、
じつは、現在の山岳用リュックサック(30g以上のもの)も、内部には軽量スチールのフレームが入っているのです。

(なお、日本軍も、昭和5年[1930年]以降は、ズック(防水布)製の軟らかい背嚢になり、昭和13年に木綿製の背嚢〔九九式背嚢、いわゆる‘たこ足背嚢'〕が制定され、今日のデイパックに近い軽い背嚢に変っています。)

つまり…ここに登場した自称「保安掛り」は、兵隊(あるいは衛生兵)のかっこうをしているわけです。
あとのほうで、『レ・ミゼラブル』に登場する戦場追剥の名前から、「テナルディ軍曹」とも呼ばれていますから、「背嚢」以外も軍人の扮装なのでしょう。

「苦味(くみ)チンキ」は、トウヒ(橙皮:ダイダイの果皮)、センブリ、サンショウ(山椒)の3種の生薬を、エチルアルコールで抽出したチンキ剤です。
褐色の苦い液で、胃液の分泌を促す健胃消化剤として、少量を飲用します。

「硼(ほう)酸」は、小学校で溶解度の実験に使われるのでご存知と思いますが、半透明で白い鱗状の粉です。水溶液は弱酸性を示します。
ゴキブリ・ダンゴに含まれています。
弱い毒性ないし高い消毒性があるので、医薬品としては、目薬やうがい薬として使われます。傷の消毒剤として、オキシフルと同様に使用することも可能です:画像ファイル・苦味チンキ・硼酸

つまり、どちらもたいした医薬品ではなく、救急薬品とも言えないようなものですが、

ともかく「保安掛り」は救護する役目の人だということで、…それも、どこかうさんくさい‘救護掛り'なので、
こういうものを背嚢に入れているのでしょう。




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