ゆらぐ蜉蝣文字


第2章 真空溶媒
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2.1.14


. 春と修羅・初版本

97_くさはみな褐藻類にかはられた
98_こここそわびしい雲の焼け野原
99_風のヂグザグや黄いろの渦
100そらがせわしくひるがへる
101なんといふとげとげしたさびしさだ

「草はみな褐藻類に変はられた」:褐藻類は、コンブ、ワカメなど、褐色の色素を持つ海草。たしかに、水中写真を見ると、海に生えている昆布や若布は、水底に臥して、草原のように波になびいています:画像ファイル・褐藻

「かはられた」という受身は、文法的には何だか変ですが、“草が、褐藻類によって、取って替わられた”という意味でしょう。

98_こここそわびしい雲の焼け野原

作者は地上にいるはずなのに、足もとの草原が海底のような海草の叢に変ったと思ったら、もう、まわりの様子は、いきなり雲の上のようです。そして、そこは荒涼とした「焼け野原」なのです。

さきほど、リチウムの紅蓮の炎をあげていた雲は、いまは作者のまわりで、真っ黒く焼けただれたようになって、ぶすぶす煙をあげています。
激しい風の動きがジグザグの線を描き★、空には「黄いろの渦」ができて、濁流のように逆巻いています。

★(注) 激しく向きを変える強風の体感が、視覚的なイメージによって表現されている《共感覚表現》です。

101なんといふとげとげしたさびしさだ

こうして、《赤鼻紳士》との会話の途中あたりから、作者のまわりの世界は、息もつかせぬ速度で目まぐるしく転変し──まるで、空のようすを齣落とし撮影したフィルムを、超高速度で映写しているようです──、
最後は、風景全体が死滅するかのように荒廃し、暗転します。

それは、他人から見れば、作者「おれ」の意識喪失なのです◇

◇(注) このような、他人から見た“意識喪失”と、作者の生きている《心象》ないし現象世界との関係は、れいの「喪神」という語の謎を解くために有効かもしれません。ギトンにとってはまだまだ宿題なのですが。。。

ところで、賢治詩の幻想のこのような目まぐるしい転変について、山本太郎氏は次のように述べています:

「この十数行
〔22-38行目──ギトン注〕の間に移り変る空や雲がなんとその自然の姿に応じ的確に表現されている事か。しかも作者もまた一秒もとどまらず、述懐せず、『歩いて』いるのだ。
 〔…〕賢治を真似て、イメージをつなげる詩人もいるが、みな失敗するのは、自然をよく視る眼がなく、つくりものの幻想へ逸脱してしまうからだ。詩のなかで時は進まず、羅列に終り、いつまでたっても空間は生まれないのだ。」
(「詩人・宮澤賢治」,p.31.)

つまり、逆に言うと、宮沢賢治の場合には、自然をよく視ているので──単に漫然と眺めているのではなく、常に“カメラ”を動かし、露出や距離を変え、かつ心眼をもって視ている──、

たとえ幻想であっても、それ自身の法則にしたがって展開し、時とともに目まぐるしく変化し、…したがって、詩の中の時間が、それ自体として進行するのです。

それは、詩自体の要求による有機的展開であって、単なるイメージの羅列ではありません。

そして、そのような・詩の“内部時間”の進行によって、誰のものでもない自立的な詩の“空間”が生まれるのです。

これに対して、もし作者が前面に躍り出てきて、“自然讃美”や“述懐”をはじめるならば、詩の“時間”は止まってしまいます。

詩の時間が進行しなければ、詩の空間は生まれないという、山本太郎氏の指摘は重要です。
それは、《心象スケッチ》に限らず、叙事詩、叙情詩を含むすべての詩について言えることなのだと思います。

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