ゆらぐ蜉蝣文字
□第1章 春と修羅
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1.12.6
そこで、翌年の「慶次郎」とのキノコ採りが注目されます:
「私」と「慶次郎」は、童話の設定では小学生ですが、モデルとなった藤原健次郎と賢治の交際は、中学1・2年時です。
したがって、彼らは、深層的読みにおいては思春期の少年たちと考えてよいと思います。
「私」と「慶次郎」は、このキノコ採りの場所を、“ふたりだけの内緒の場所”にしたいと思っています。
ふたりは、その“内緒の場所”で、ずぶぬれになって喜び、やがて明るい陽が射します。
これは、少年どうしの性愛の交わりと、交わった後の明るい喜びの時間を表現していないでしょうか。
なお、「私」の兄が、「私」にホウキダケのとれる場所を尋ねようとしないのは、“正常”な大人の男である兄は、未熟な性に対して関心を持たないからだと思います。
このように、「慶次郎」と「私」は、女陰を象徴する《谷》から・やや隔たった場所で、自分たちだけの秘密の時間を持つのですが、
それは一時的にしか成立しません:
ふたりは、最後には《谷》の恐怖に襲われて、一目散にそこを遁げ出してしまうのです。
そして、「次の年はたうとう私たちは兄さんにも話して一緒にでかけたのです」
つまり、ふたりだけの“秘密の場所”での交わりは、たった一度で解消してしまうのです。
ここに(あるいは作者自身にとっては無意識に)描かれているのは、成熟した女の性、あるいは大人の男女の性による脅威の前に、少年の性が抑圧され、しぼんでしまうという図式でしょう。
それは、別の言い方をすると、作者が“大人の性”“成熟した女の性”を忌避し、“少年の性”に対して強く固着しながら、後者をも貫けないというジレンマを表しているのかもしれません。
それは、複雑に歪んだコンプレックスを醸成します。
作品「谷」において、作者が、自然の草花、エフェメラル(妖精)に対しても、「妖女」の名を与え、隠れた強い嫌悪感を表現しているのは、作者が《谷》に対してその時期に持っていた歪んだイメージに基いているのだと思います。
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