ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
63ページ/114ページ


1.10.4


じっさいに、どういう背景があり、どんな具体的対象を契機にしているのかは分かりません──春休みの演劇に泥を塗られた件なのか、日曜日に藤原嘉藤治のところで会った女性なのか、誰か美少年に心ときめいてしまったのを払拭しようとしているのか、あるいは、単に道端で早春の花が枯れている無残な姿を見て心痛めたのか──が、

背景・対象を特定しなくとも、この詩は読めるのではないでしょうか。

いずれにせよ、この時期の賢治はまだ、華やいだ人間的な交流のチャンスがやってくると、かえって身を固くしてはねつけてしまうような傾向があったのだと思います。

しかし、それは、肺疾のために高等農林を去ってから3年余りの“家業手伝い”という名の蟄居生活の“後遺症”に過ぎず、決して、ずっと続くわけではありません。

06 春は草穂に呆(ぼう)け

春は移ろいやすいぞ、警戒せよと、呼びかけている相手は、おそらく作者自身でしょう。

03髮がくろくてながく
04しんとくちをつぐむ
05ただそれつきりのことだ

09頬がうすあかく瞳の茶いろ
10ただそれつきりのことだ

これらを見ると、対象は人間としか思えません。3-5行目は、農学校の若い同僚、たとえば堀籠教諭でもおかしくありませんが、9-10行目まで行くと、若い女性か少年のように思われます。
ところが、

06 春は草穂に呆(ぼう)け
07 うつくしさは消えるぞ

のほうは、
春先にいっせいに開いた花々が、まもなく萎れ、青い穂と草ぼうぼうだけになってしまう──という季節の移りゆきを予告しているようでもあります。

つまり、この詩を、もっぱら女性など人間を対象としたものだとすることも、
逆に、自然や農業気象を対象としたものだと読むことも、一面的なのだと思います。

最後に、もうひとつ
ギトンが2年前にブログに書いたものから再録しておきたい部分があります。
いま考えると、↓これも一面的な読みと思われますが、なお捨て去るには忍びないので‥‥

「ここで賢治が、『まんじゅう』を踏みつぶすようにして、嫌悪の情を露わにしているのは、女性一般、性愛一般を嫌悪しているからではなくして
自分から、たいせつな恋人を奪い取ってしまった女性たちに対して、嫉妬と憤りの気持ちを隠せないからなのだと思います。
『いつたいそいつはなんのざまだ』は、女性に対して言っているのではなく、移ろいやすい女性の美しさに夢中になってしまう通常の(異性愛者の)男性に対して、言っているのです。」

「『(ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)』
 これは『さびしく、悲しくて、自責に堪えない』という意味です。おそらく、作者自身が、女性に愛情を感じられないことを言っているのだと思います。『ここは』という近称が、作者の内部であることを示しています。」

「『蒼ぐろくて』の意味については、詩〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕に、『青黒さがすきとほるまでかなしいのです。』という用例がありました:詩〔堅い瓔珞は‥〕
 『小岩井農場・パート四』でも、
【下書稿】の『けれどもやっぱり寂しいぞ』という行が、《初版本》では『それからさきがあんまり青黒くなつてきたら…』に直されています。
 『がらんとした』については、童話『さいかち淵』で、水遊びをしていた子どもたちが、通りかかった大人を意地悪く囃し立ててて追い払ってしまったあとで、『ぼくらも何だか気の毒なような、おかしながらんとした気持ちになった。』とあります。これは、気の毒で寂しい気持ちを言うのでしょう。」

「『(おおこのにがさ青さつめたさ)』
 これは、冷酷な怒りの気持ちで、女性の可愛さ・美しさに対する嫉妬と思われます。作品『春と修羅』7行目に、『いかりのにがさまた青さ』とあります。 つまり、一種アンビヴァレンツな感情が現れているわけです。」





【11】へ
第1章の目次へ戻る
.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ