ゆらぐ蜉蝣文字
□第1章 春と修羅
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1.10.3
〔2〕森惣已池(「『春と修羅』異稿について」,in:『「春と修羅」研究U』pp.78-107.)
. 春と修羅・初版本
07 うつくしさは消えるぞ
について、《宮澤家本》での改稿の経緯を追い、
07 媚びの眼はみな風に消えるぞ
という中間形があることを指摘し、
08(ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)
という《初版本》テキストが、
08 (ここらはいつたい蒼くくろくて
08b ひどくがらんとしたもんだ)
となって強調され、最終行も
11 (このにがさ青さつめたさ
11b このにがさ青さつめたさ)
と、2行になって繰り返されている「ことにいたっては、これでもかといった風さえある。」
「こどもが路上におとした『まんじゅう』や『だんご』のたぐいを、めちゃめちゃに踏みつけるような調子でさえある。何に因由するのか。女性や愛や性欲を、強く厭悪したのによるのではなかろうか。」
としています。
森氏は、この詩の感情を、女性に対する嫌悪としているわけですが、そこまで言われると、ちょっとしっくりしない感じがします。
たしかに、森氏が指摘するように、賢治詩で好意的に詠われる女性は、たくましい労働女性と、未熟な少女(ロリータ?)に限られています。他の女といえば、妖しげな遊女、楽園の主に取り入って破滅させる妖怪、悲哀に満ちた元娼婦、萎れるように死んでしまう・はかない植物的な妻、‥などです。
賢治の童話には、仙女さまや女神のような“理想女性”“聖母マリア”の役割をする人物がいません。
しかし、それにしても、この「春光呪咀」が、嫌悪だけを述べているとは思えないのです‥
また、〔1〕〔2〕いずれも《宮澤家本》テキストを典拠にしている点も、気になります。
改稿前の《初版本》テキストに限定すれば、何が言えるのか、もっと追究する必要があるように感じます。。
01いつたいそいつはなんのざまだ
02どういふことかわかつてゐるか
03髮がくろくてながく
04しんとくちをつぐむ
05ただそれつきりのことだ
06 春は草穂に呆(ぼう)け
07 うつくしさは消えるぞ
08 (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)
09頬がうすあかく瞳の茶いろ
10ただそれつきりのことだ
11 (おおこのにがさ青さつめたさ)
最初に紹介したような、この詩のできた前後のできごとなどは、とりあえず括弧に入れて、
この詩を虚心に読んでみますと、
ここに書かれているのは、早春の草花(スプリング・エフェメラル)のような美しいもの、可憐なもの、魅力的なものの・移ろいやすさ、はかなさ、(それは人間の女性でもありうるし、少年でもありうるのですが)
そして、エフェメラル(妖精)が消えた後の・がらんとした虚無の耐えがたさ、苦さだと思います。
しかも、そうした儚い美しさを愛(いとお)しむというのではなく、かえって、そうしたものは無駄だ、くだらない、かかずり合うな、と言っているかのようです。
つまり、
08(ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)
という“自己の虚無世界”に固執するあまり、そこに一滴の潤いをもたらすかもしれない対象に対して、ことさらに拒否的な態度に出ている‥
そして、
11(おおこのにがさ青さつめたさ)
は、拒否した後にやってくる・いっそう冷え込んだ虚無の苦々しさを述べているのだと思います。
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