ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.8.4


『冬のスケッチ』断片に盛られた賢治の恋愛感情☆について、菅原千恵子氏は、次のように考察しています★:

☆(注) 保阪嘉内については⇒いんとろ【8】たったひとりの恋人:保阪嘉内

「法華経に対して迷いを抱いたというだけで賢治は自分自身を責めずにはいられなかったのに、じつはそれだけではすまなかった。嘉内との別れによって賢治自身が思ってもみなかった感情に苦しめられることになったのだ。それは嘉内を失って初めて湧き起ってきた未練であり、もう一歩進んだ恋慕の情であった。〔…〕
 けれど賢治はこの
〔保阪嘉内への━━ギトン注〕恋をひた隠しに隠した。そうなのだ。賢治は自分の恋を決して人に語るわけにはゆかなかったのだ。」



「 おれのかなしさはどこから来るのだ
と、思わず独白してしまった恋の詩は、賢治自身も気づかなかった心のもだえとして始まりやがて彼自身、それが恋愛感情であると認めたときから賢治の苦悩が始まったのだ。
  ほんとうにおれは泣きたいぞ。
  一体なにを恋してゐるのか。
  黒雲がちぎれて星をかくす
  おれは泣きながら泥みちをふむ。

  〔賢治の原文は「ふみ。」━━ギトン注〕

 別れの後に押し寄せてきた哀しみの感情、恋のような切なさ、そのおもいを賢治はもてあます。」

「死期近い妹のことにさえ心が行かぬほど自分の悩みでいっぱいだった。そしてその悩みとは『恋』であったということだ。つまり、妹の病熱と自分の恋が、同じ比重であり、その痛みと苦しさは妹の病と比べても変わらぬほど重く深い心の病を生んでいたということなのだ。たましいを病むほどの恋があったとするなら、それは保阪嘉内をおいて外にはない。」

★(注) 菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,角川文庫,pp.142-144,150. なお、宮澤賢治が「自分の恋を決して人に語るわけにはゆかなかった」理由について、菅原氏は、「激しい論争の果てに別れていったかつてのただ一人の友保阪嘉内へ寄せたものだったからだ」(同上書,p.144)とされています。しかし、むしろ端的に、当時一般の‘常識’と差別感情の下では、同性愛者であることを告白できなかったからだと、解すべきではないでしょうか。なぜなら、賢治の恋は、単なる同性との性的いたずら(それだけならば、世間の許容範囲内だったでしょう)ではなく、異性間にも劣らない強靭な恋愛感情を伴う真摯なものだったからです。なお、賢治と嘉内の“訣別”は、かならずしも菅原氏の想像するような「激しい論争の果て」ではなかったとも考えられます。むしろ、賢治の過剰な愛ゆえの“おせっかい”を、嘉内が嫌がって撥ねつけるなり避けるなりしたのではないかと、ギトンは想像します。

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