ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.6.2


ところで、このころ宮澤賢治は、《スケッチ》に出かけない日曜日は、何をしていたのでしょうか?w
『冬のスケッチ』には、

「日曜にすること
 運針布を洗濯し
 うん針を整理し
 試験をみる
 それから つばきの花をかき
 本をせいりし 手げいをする
   とノートのはじに書けるなり。」(23葉)

という一節があります。

「運針布」は、和裁の基本・手縫いの練習をする布です:運針布
妹がノートのはじに書いたのを見たということでしょうか?たしかに、高等女学校☆に勤務していたトシ子の日曜の予定だとすればよく分かります。

☆(注) 高等女学校は、第2次大戦前の女子に対する教育機関で、男子の旧制・中学校に対応するもの。尋常小学校卒業後5年間(12・13歳〜16・17歳)の中等教育を行ないました。高等女学校施行規則によりますと、教科の中で、“裁縫”は各学年週4時間で、国語(週6または5時間)に次ぐ最重要科目でした。

しかし、トシ子は、1921年9月に喀血して退職し病床に就いているので、それ以前のノートを見たことになります。
それに、「‥書けるなり。」という言い方は、自分で書いた、という感じがします。もちろん、誰彼が「書けるなり」も文法的には可能ですが、誰かが書いたのを見つけた‥ならば、「書きたり」「書けるあり」が、ふつうではないでしょうか?

賢治本人が書いた‥も、ありうるのではないかと思うのです。もちろん、男子校である農学校では、当時、家庭科や裁縫を教えてはいませんでした。
しかし、古着屋をしていた宮澤家の家業手伝いとして、賢治も運針を習った可能性はあると思います。農学校に勤務し始めてからも、裁縫や手芸が趣味ならば続けていたでしょう。

絵は描いていました。ただ、遺された自筆画を見る限り、写生はあまりしなかったようです。猫の絵はありますが、椿や花の絵は遺っていません。

宮澤賢治は「手げい」をした、などと言うと、誰もが否定するでしょう。
賢治の時代には、手芸は男のすることではありませんでしたから‥。

しかし、男の同性愛者には、手芸や、アクセサリーや、お菓子作り‥‥要するに女の子の趣味が大好きな一群の人たちがいるのですw 賢治にもオカマ趣味があったんじゃないか?‥

それは、本人も表立って言えることではないから、「ノートのはじに書けるなり」。

ありえないことではないという気がするのです‥

そういえば‥
宮澤賢治のガーデニングは有名です。依頼されて花巻病院や花巻温泉遊園地の花壇を設計しているほどです。

賢治のガーデニングは、ウィリアム・モリスの影響だとも言われますが、

ギトンはむしろ、もともと手芸や園芸の方面に関心があったのが接点になって、思想家としてのモリスにも近づいて行ったんじゃないかと思うのです。

ともかく、“石っこ賢さん”の意外な一面として、手芸、刺繍、イラストレーション‥‥、
今後開拓できる分野ではないかと思います(『宮澤賢治イーハトヴ学事典』にも、手芸は収録されていないようですねw)






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