ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.5.2


←[注★]の論文によりますと、岩根橋のカーバイド工場は、水力発電所の余剰電力(まだ電気・電灯の普及がわずかで、電力需要が少なかったのでしょう)を利用して操業していたもので、余剰電力のある時だけ動いていたとのことです。

したがって、渇水期である冬期には余剰電力が少ないはずですから、冬は操業していなかったかもしれません。このスケッチが書かれた時には、工場は無人状態だったのではないでしょうか。

町の明かりだと思って、喜んで山を下りて来たら、休止中の工場のノキに下がった裸電球だったわけです。

「透き通って冷たい電燈」──つまり、「電燈」と言っても、フィラメントが見える透明ガラスの裸電球が吊してあるだけです。
「薄明どき」は、この場合、夕方の“たそがれ時”のことです◇

◇(注) この「薄明どき」を夜明けと解する研究家が多いのには恐れ入りますw‥前日の昼間から夜通し「山峡」を歩き回っていたと思っているのでしょうか?! ほかの季節ならともかく、1月の厳冬期の雪山でそんなことをしたら(雪上装備もなく!)、いくら宮沢賢治でも涅槃成仏は間違えないでしょう。

「巻烟草に一本火をつけるがいい」は、同行者がいて、同行者に呼びかけていると考えても、よいと思います。
しかし、賢治自身も喫煙したことは、花巻農学校の職員室で、同僚とタバコをふかしている写真があるので、まちがえありません。
「巻烟草」は、葉巻ではなく紙巻タバコでしょう。

. 春と修羅・初版本

06 (薄明どきのみぞれにぬれたのだから
07  巻烟草に一本火をつけるがいい)
08これらなつかしさの擦過は
09寒さからだけ来たのでなく
10またさびしいためからだけでもない

カーバイド工場の軒下で一休みして、みぞれで濡れた服を乾かしているわけです。

《宮澤家本》では、8行目を、

「汗といっしよに擦過する
 この薄明のなまめかしさは」

に直しています。
「なつかしさ」は、【3】で引用した『水仙月の四日』にも出ていましたね‥。時間的に隔たった対象だけでなく、目の前にある対象や、ほんのしばらく前に出会った対象に対しても、
何とはなく心惹かれてしまう恋慕の情動を表わしているのだと思います。
《宮澤家本》では、それが「薄明のなまめかしさ」と言い換えられています。

人肌の汗のにおいとともに擦過するエロスの感覚──それが作者自身の身体の匂いなのか、いっしょに休んでいる(おそらく)男性の身体から発散してくるものなのかは、
さきほど見たとおり、作者は一人で歩いて来たのか、それとも二人なのかによります。

ギトンは、同僚か親戚の若者と二人、と考えてもよいように思うのですが‥





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