ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.4.4


しかし、まだ解決ではありませんw
5-6行目の:

. 春と修羅・初版本

「〔…〕合羽のはじが
  どこかの風に鋭く截[き]りとられて来た」

という部分は、さらに不可解だからです。

@合羽のはじがちぎれて飛んで来た、ということでしょうか?

それとも、
A単に、↑上の浮世絵のように、合羽のはじがあおられて、鋭く尖っている、ということでしょうか?

ふつうは、Aに解しているようです。
しかし、なびいているだけなら、「きり取られて来た」と言うでしょうか?!

これはやはり、文字通りに@に解すべきだと思うのです。少なくとも、いきなり切れ端が作者のほうに飛んできた《心象》を思い浮かべて読むべきだと思います。
急に突風が吹き、ばたっと音がして、通行人のコートのはじが破けたようになった──ほんとに破けた破片がぶつかってきたかもしれない‥顔に何かがバシッと当たったから‥
そんな情景を思い浮かべてよいのではないかと思います。

ところで、浮世絵では、風は画面の右から左へ‥つまり、横に吹いていますが、賢治の詩では、真正面から吹いてきています。つまり、作者は向かい風です。
浮世絵は平面的ですが、賢治が描いている情景は、決して平面的ではないのです‥

これが、「鋭く截[き]りとられて来た」という表現をした意味なのだと思います。

そうした急激な場面転換に対応して、リズムも、第1連のリズミカルな調子を壊すように、第2連は非定型な散文調になっています。

ところで、「どこかの風に」という言い方も、なんだか変ではないでしょうか?
目の前で吹いている風を、「どこかの風」と、ふつう言うでしょうか?!

つまらないことにこだわる、と思うかもしれません‥。しかし、賢治の詩には、こういう“ちょっとひっかかる言い方”が、ときどきあるのです。

見過ごしてしまいそうな・ほんのちょっとしたことなのですが、

こういう部分を突き詰めて行くことによって、むしろ解釈が開けると、ギトンは考えています。

第3連を見ると:

09野はらのはてはシベリヤの天末

とありますから、風はシベリアから吹いて来るようです。
冬の季節風がシベリア方面から吹いて来るのは、あたりまえなのですが‥

ところが、第2連では、“どこから吹いて来たのか分からない風”だと言っているのです。なにか、意味ありげな言い方だと思いませんか?

この詩を叙景として、そのまま解釈すれば、
突然吹いてきた突風の唐突さを、「どこかの風」という言い方で表現しているとも、思えなくはないです。
そして、突風がやってきたあと、第3連では、一種情熱的な厳冬の光景が広がるのです。

しかし、もっと掘り下げて読むこともできるかもしれません。というのは、最近読んだ大内秀明氏の本の中に、次のように書いてあるのが目にとまったからです:

「啄木だって同じだが、大正デモクラシー、そしてロシア革命の日本への影響は大きかった。その意味で、戦後民主主義の中で社会主義の思想に憧れを抱いたわが世代よりも、さらに大きく強く深い社会主義の洗礼を賢治たちは受けたかもしれない。東北地方は工業化の発展から取り残され、農村の疲弊と貧困の中で、資本主義への強い批判と社会主義への夢をかきたてられたのは当然だったろう。」

(『賢治とモリスの環境芸術』,時潮社,2007,p.14)

ギトンは大内氏の見方には、必ずしも賛成しません。とくに、宮沢賢治がロシア革命から「社会主義の洗礼」を受けて「社会主義への夢をかきたてられた」ことなどは、いっさい無かったと断言できます。
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