ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.17.12


しかし、《和賀断片》が書かれたのは、1921年末〜22年早春‥

   ⇔

他方で、賢治と嘉内が“松並木”に同行したとしても1918年3月‥

これを、どう解するかですが‥
賢治は、1921年末〜22年3月にこの地を訪れて“松並木”を見た時に、かつて嘉内と訪れたことや、その際の会話──落ち込んでいる嘉内の気を引き立てるために、このような冗談もいい、あわせて「むくつけき/松の林」、つまり高農を皮肉ったのでしょう──をありありと思い出し、スケッチの一部としたのではないでしょうか?

考えてみれば、このような“重層的なスケッチ”は、賢治にはありふれた創作です。。 すぐ思いつくだけでも、
長詩「小岩井農場」に何度も現れる“冬に来たとき”の回想、
5月の日付を持つ詩「風景」に挿入された『冬のスケッチ』の4月の情景:「風青き喪神を吹き‥」(46葉)‥などなど

ただ、この《和賀断片》では、回想であることを断っていないので、読者には、なかなかそうとは分からないのです。それは、公表すべき作品ではなくその前段階のメモという・『冬のスケッチ』の性質上、やむをえないことだと思うのです。

さて、‥以上、ずいぶん遠回りをしましたが、作品「習作」の末尾にある:

 ┃
行┃ 和賀の混んだ松並木のときだつて
 ┃
く┃ さうだ
 ┃

の意味と含みは、かなり解明されたかと思います。
作者はここで、保阪嘉内との会話をなつかしく思い出しているのです‥

というよりも、
この作品「習作」全体が、

保阪に由来する「とらよとすれば‥」の歌詞をあしらい、

「鞭をもち赤い上着を着」た西洋風の騎兵の扮装で、作者は保阪になりきり、

保阪も知っている盛岡高農の「柘植先生」を登場させ、

最後は、「和賀の混んだ松並木」の楽しかった会話を回想し、

そこでは、作品には表れないまでも。。。
「(赦したまへ。)」という『冬のスケッチ』の思いを反芻して、保阪との“別れ”を後悔し ‥

作品そのものが、保阪に宛てて、保阪が読むように書かれているとしか、考えられないのです!

そういえば、植物名の謎解きを散りばめているのも、保阪に宛ててでしょう‥

菅原千恵子氏は、この『春と修羅』《初版本》全体が、保阪に宛てて書かれたものにほかならないと論じておられます:

「その通り、賢治はある特定の誰かに見てもらうためにこの詩集を出したのだ。そしてこのある特定の誰かだけが一読すれば全てを理解できる人であった。その誰かこそ賢治のただ一人の友保阪嘉内だったのだ。」

(『宮沢賢治の青春』p.160.)

ギトンは、「この詩集」全部かどうかは分からないと思っていますが、

すくなくともこの「習作」は、“保阪に読ませるための作品”“保阪にしか分からない作品”として書かれたのだと思います。。。


和賀仙人鉱山跡(和賀川急崖に露出する赤鉄鉱の露頭)
お借りいたしましたm(_ _)m⇒和賀計画



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