ゆらぐ蜉蝣文字


第1章 春と修羅
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1.17.8


. 春と修羅・初版本

 ┃
手┃ このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
 ┃
か┃ かんがへたのはすぐこの上だ
 ┃
ら┃ じつさい岩のやうに
 ┃
こ┃ 船のやうに
 ┃
と┃ 据えつけられてゐたのだから
 ┃
り┃ ……仕方ない
 ┃

ブッシュの中を歩きながら、
さきほどブッシュを上から見た時には、「ずゐぶんよく据えつけられてゐる」と思った…
そう思ったのは、このすぐ上だった‥

「仕方ない」という冗談めいた言い方は…やはり同行者がいるような気がします。あるいは、誰かと歩いているつもりになっているのでしょうか。

 ┃
は┃ ほうこの麦の間に何を播いたんだ
 ┃
そ┃ すぎなだ
 ┃
ら┃ すぎなを麥の間作ですか
 ┃
へ┃ 柘植(つげ)さんが
 ┃
と┃ ひやかしに云つてゐるやうな
 ┃
ん┃ そんな口調がちやんとひとり
 ┃
で┃ 私の中に棲んでゐる
 ┃

「間作」とは、畑作技術のひとつで、キュウリの列の間にトウモロコシを植えて防風の役目をさせるとか、違う作物をウネごとに交互に植えることをいいます。

「間作」は、背の低いほうが日陰になったり、たがいに生育を邪魔しあうので、悪い植え方だと言われています。日本では、明治以来の農業技術近代化の中で、「間作」は、古い間違った方法として排斥されました。

しかし、ここでは、麦畑の草取りを怠って雑草を繁らせてしまったのを見て、“麦の間作としてスギナを植えてるんですか?”──と皮肉っているのです。

さきほどの「この藪はずゐぶん良く据え付けられてゐる」も、同様に考えれば、
畑地が放棄されて、ヤブが繁るままになっているのを、皮肉って言っているのかもしれません。

「そんな口調がちやんとひとり/私の中に棲んでゐる」が、またおもしろい言い方になっていますが、
これも、外界と心内の《心象》の対応でしょう。

他人の言動を聞いた体験は、作者の中に住みついて、同じ冷やかし口調で喋るようになる、ということです。

「柘植さん」は、盛岡高農の柘植六郎教授(園芸、実習等担当)と思われます(⇒:柘植教授)。『歌稿A』「大正4年4月〜」の冒頭2首に赤インクで:

「◎苺畑の柘植先生」

という注記が記入されています。この2首は“外山”☆の風景を詠んでいるようです。大正4年(1915年)4月に賢治は盛岡高農に入学していますので、もし「柘植先生」が高農の教員ならば、“外山”の・おそらく種畜場へ、見学か非公式の遠足に行ったさいに、沿道の荒れたイチゴ畑を見て、「柘植先生」が冗談を言ったものでしょう。

☆(注) “外山”は、現在の盛岡市玉山区藪川字外山付近、北上高地中の代表的な隆起準平原。明治初期1876年、馬の育成を目的に県営外山牧場が開かれ、1891年〜1922年は宮内省御料牧場、その後は県の種畜場、現在は県畜産試験場があるほか、大部分は外山森林公園として観光用に開放されています。戦前は軍需のための繁殖馬育成が盛んで、賢治はしばしばここを訪れています。

. 外山森林公園 外山節

なお、このスケッチの場所ですが、次の「休息」が同じ日付で、花巻城址と思われることから、このスケッチも、花巻の城山の近くと思われます。

 ┃
行┃ 和賀の混んだ松並木のときだつて
 ┃
く┃ さうだ
 ┃

「和賀の混んだ松並木」については、以下で説明しますが、場所が判明しています。
その「松並木」について、賢治か、あるいは同行していた人物が、“スギナの間作”と同じような皮肉を言ったことがあったのです。

ただ、その「とき」は、いつなのか、同行者がいたとしたら誰なのかについては、諸説あってはっきりしません‥
しかし、最後の行:「さうだ」だけで、ひとつの行になっています。そこに‥何か含みがあるような‥この“和賀の思い出”を、作者はとくべつに強調しているように思われるのです。。。
.
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