ゆらぐ蜉蝣文字
□第0章 いんとろ
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0.1.5
仏教では、
この世の一切の現象は見せかけで、「空(くう)」=虚無こそがこの世の本質だと教えます。
しかし、たとえ「虚無」と名づけたからといって、
それで、現に見えている現象が変わるわけではありません。
あえて言えば、「虚無」とは、こういう現象のことなのです(笑)
そして、互いに交感し合う《人》や自然物が共通に感じた現象の“忠実な記録”である《心象スケッチ》は、
人々が、常識的な見方や世界観、科学理論といったものに妨げられて気づかないでいる・《人》と《もの》とが共通に感じる《なまの現象》を、白日のもとにするのです。
宮沢賢治が生きていた時代、
ヨーロッパでは、エドムント・フッサールの《現象学》が、思想・哲学界を風靡していました。
日本でも紹介されていましたから、賢治も、小耳に挟んだことがあったに違いありません。
賢治は、「事象そのものへ(Zu den Sachen selbst!)」を標語とする現象学の思潮を梃子として、
宗教的な“さとり”を目指す方向から脱却して行ったのだと思います。
ところで
宗教については一応乗り越えたとして、
地質学などの科学は、↑この現象本位の見方のもとでは、どうなるのでしょうか?
《もの》と交感しようとする《心象スケッチ》は、科学と矛盾しないでしょうか?
先の段落を読んでみましょう:
. 春と修羅・初版本「序詩」
「記録や歴史、あるいは地史といふものも
それらのいろいろな論料(データ)といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相当のちがった地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色の孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるひは白亜紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます」
賢治の現象本位の見方のもとでは、科学もまた相対化されます。
2000年後の未来には、今とは異なる科学に基づいて、地質学者は成層圏で化石を発掘しているかもしれない…
その2000年後の科学に基づけば、現在の大空には、巨大な孔雀が青い羽根を広げていたということが“発見”されるかもしれないと言うのです。
これはまた突飛な想像ですが、それが絶対に有り得ないとは、誰にも言えません。現象に対する見方が変われば、どんな発見があるか分からないのですから…
こうして、歴史や地史というものも、過去に対する“一つの”見方にすぎないことになります。
時代が変って行けば、新たな見方と研究によって新たな証拠が発見され、歴史も地史も書き替えられて行くのです。
そして、賢治によれば、このような時間と歴史(心象)の複雑な相互運動もまた、
「心象や時間それ自身の性質」によって起きる現象なのであって、
そうした《時間》の性質、《時間》における《心象》のふるまい、《時間》の表象である《歴史》《地史》の生成変化といったことが、
(物理あるいは哲学の)理論的認識の対象となるのです。
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