ゆらぐ蜉蝣文字


第0章 いんとろ
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0.5.3


作者自身とペアであるべき“最愛”の妹が、なぜペアでやって来なければならないのか?‥

「どこかで 鈴が鳴ってゐる
  峠で鈴が鳴ってゐる
   峠の黒い林のなかで
    二人の童子が鈴を鳴らしてわらってゐる
     赤衣と青衣…それを見るのかかんがへるのか…」
(「水源手記」【下書稿(1)】,#171,1924.4.19.)

↑ここでも、ふつうなら、最愛の人の面影が夢枕に現れるような場面で、「二人の童子」──「赤衣と青衣」の2人の子供が、まどろみかけている作者の脳裏に、ペアで現れるのです。

少年詩人森佐一との交友が進んで、盛岡と花巻で何度か昼夜を過ごしたころ、賢治は、ほかの友人のひとりに、こう語っていたそうです:

「『自分の詩や自分自身をよく理解してくれる少年がひとり見つかって嬉しい。あの年ごろで、あの少年ぐらい自分を理解し共鳴してくれる少女がひとりあって、その二人の少年少女と一緒に交際できたら自分は幸福だと思う。』と語ったというのである。

 私はこの話を聞いたとき、そうだったのかと深くうなづき、すーっと伸びた一本の木とその左右にはえている小さい二本の木を思い描いた。一本の木である少女はけれどもついに現れなかった。」

(『宮沢賢治の肖像』,p.161)

さすがに賢治の理解者だけあって、第三者経由に聞いた話も、意味を変えずによく受け止めていると思います。

しかし、森は、賢治の同性愛志向を知らなかったようです。保阪嘉内に関しても、賢治からは、演劇などに関心のある同級生としか聞いていなかったようなのです。

賢治が、第三者に語った言葉を額面どおりに受け取ってよいかどうかは、問題があると思います。

当時の地方都市では、男女交際にしても、著しい制約があったのです:

「女の子ならば、あんなに夜でも昼でも自由に会えて楽しく話し合い、物を教わり、床をならべて眠ることもできず、西洋料理店で会食することもはばかられたろう。女の子なら、どうしても制限が出てくる。」
(op.cot.,p.162)

そこで、これを、賢治が背負っていた“時代”の不可能性──「時代と社会の内部にひそみ、またあらわれるところの不可能性」(菅谷規矩雄)の爪あととして読み取るのも、ひとつの解釈かもしれません。

賢治個人が抜けられなかった消極性、微温的な“社会との妥協”、“甘さ”のせいにする理解は、むしろ多いでしょうし、受容〔第U期〕においては、それが賢治批評の一般的傾向でした。
しかし、それはやはり誤解だし、賢治作品を読み解く上では、邪魔にしかならない浅見だと思うのです。

時代の制約、個人の資質もあるでしょうけれども、
そういうもろもろとの格闘の結果として、作者が結実させていたものは、何だったのか?
‥もっと“作品”に即した理解、“解読”は、できないものかと、ギトンは模索しているのです‥




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