ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.12.10


以上から考えますと、

. 春と修羅・初版本

39うるうるしながら苹果に噛みつけば

の意味は:しっとりと潤んだ気持ちになって、まんまるい新鮮なリンゴに歯を立てた──というようなニュアンスと思われます。

これに、さきほど引用した清六宛て書簡の「うるんだ雲」という表現が重なると思います。

つまり、この「うるうる」したリンゴの“午餐”は、「白つぽい‥かさかさ」のパン──地衣類の「饗応」から、まっすぐに繋がっているのです。なぜなら、この「かさかさ」の生命の見た目は乾ききっていても、それは、ようやく芽生えた《再生》へのみずみずしい食物にほかならないからです。作者もそう考えていることは、

26その白つぽい厚いすぎごけの
27表面がかさかさに乾いてゐるので

という言い方に現れていたと思います。

39うるうるしながら苹果に噛みつけば
40雪を趣えてきたつめたい風はみねから吹き
41野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ
42北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
43  (あれがぼくのしやつだ
44   青いリンネルの農民シヤツだ)

「趣えて」は「越えて」の誤植。
40行目は、15行目と同じです:

15雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き

「みね」は、薬師岳。雪で被われた薬師火口壁から寒風が吹き下ろしてきます。
そのために、《焼走り》よりも下に広がる裾野原では、シラカンバの疎林が、紅葉した葉をふるわせて、せわしく揺れています。

「紅(べに)や金(キン)や」──つまり、同じシラカンバでも、個体ごとの特性によってさまざまな色に色づいた樹々は、それぞれの個性を際立たせているのです。

「北上山地」は、かなたを流れる北上川を隔てて、さらにその対岸はるかに望まれます。「幾層の青い縞」──西側の奥羽山脈とは異なって、北上山地には、ずばぬけて高い山はないので、大海の波のように連なる何列もの山並みが、ずっと地平まで重なっているのです。遠い山並みは薄く、近い山並みほど濃く、青い色の濃淡が幾層もの「縞」をつくっています。

「リンネル」は、亜麻(あま)の繊維を織った織物。亜麻布。現在、日本で“アサ布”として流通しているものは、大部分がリンネルです。漂白していないリンネルは、薄茶〜淡黄色で、“麦わら色”と呼ばれます:画像ファイル・亜麻 画像ファイル・リンネル

さて、ここで作者が北上山地を眺めながら、「あれがぼくのしやつだ/青いリンネルの農民シヤツだ」とつぶやく独白は、誰しもが注目しているようで‥、まず、恩田逸夫氏は:

〔《焼走り》・岩手山方面の──ギトン注〕近づきがたい自然の様相と対比して、人間の営みの行われている北上山地に親しみの情を示している。むしろ後者に強い愛着を感じているのである。〔…〕

 ここでは、もはや『宗教風の恋』の観念性や高踏性は超越されようとしている。〔…〕現実生活への関心が強まっている〔…〕」
(恩田,op.cit.,pp.226-227)

と述べていますし、栗原敦氏は:

「『ぼくの』と捉える自然との合一感が、『北上山地』の『ほのかな幾層の青い縞』という実存をかける場たる地誌的な郷土の発見と重なる形で示され、しかも『青いリンネルの農民シャツ』という社会階層的位置の選択の暗示までも込めて描き出されたのは、〔…〕初めてであった。」
(栗原,op.cit.,p.108)

つまり、北上山地を望んで、「あれがぼくの‥青いリンネルの農民シヤツだ」とつぶやく作者は、自分の生存の基盤として、具体的なあれこれの山野市村を抱く「地誌的な郷土」を発見し選択しているのであって、そこにおける自分の投企すべき「社会階層的位置」として「農民」を目指していると言えるわけです。
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