ゆらぐ蜉蝣文字


第5章 東岩手火山
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5.5.16


 ‥あゝ、あわれ、あわれ、若さまに捨てられて可哀想な唖娘

 この仇、きっと討ってくれる、泣くな、泣くんぢゃない、妹よ!

 とコブシを握りしめる兄の目から、ひとすぢの涙がこぼれるのでありました‥ ぺぺんぺん!

すいませんね。。。 ギトンは書きながら笑っちゃいましたww

ともかく、そういうわけで、ギトンがここで言いたいのは、

「マサニエロ」という題名から、マサニエッロとフェネッラの兄妹を、宮澤賢治とトシ子に置き換えるような、──そんな安直なことができるようないきさつではない、ということなのです。

この映画を見て、‥そんなセンチな置き換えができるほど、宮澤賢治は悪趣味じゃなかったと思うんですけどね。。

もし、できるようなら、大衆作家になっていたでしょうにwww

. 春と修羅・初版本

15ひとの名前をなんべんも
16風のなかで操り返してさしつかえないか

↑この「ひとの名前」がトシ子だとすると、どうしてもおかしくなる理由は、ほかにもあります。

「マサニエロ」を、病床のトシ子を思いやる哀歌だとする人は、次の「栗鼠と色鉛筆」でも、そこに描かれたリスに、作者はトシ子を見ているのだとします。
しかし、「栗鼠と色鉛筆」の、ひじょうに戯けた楽しそうな風情は、「マサニエロ」の時よりもさらに病状が重くなっているはずの、トシ子の状況にそぐわないのです。

また、↑上の15-16行目から感じられる作者の抑えられた気持ちは、たいへんに切ないものだと思います。

そして、相手は遠くにいる人のように思われます。
作者の叫びを、吹きすさぶ風が、きれぎれに吹き飛ばしてほしい、そして、そのきれぎれに飛ばされた作者の気持ちの破片が、そのひとに届いてほしい‥‥そんな願いが、ギトンには感じられるのです。

《トシ子説》以外では、たとえば、「ひとの名前」は、大畠ヤス子という女性だという人もいます☆

☆(注) 澤口たまみ『宮沢賢治 愛のうた』,2010,盛岡出版コミュニティー,pp.98-103,127-139.

しかし、このヤス子という人は、宮澤家のすぐ近所の蕎麦屋の娘さんなのです。

さて、そろそろ、ギトンの考えた答えを皆さんの判断にゆだねるときが来たようです。

ギトンの考えは、こうです:

宮沢賢治は、詩本文だけでは読者が内容を理解できないときには、題名にヒントを書く──ということは、もう何度か確認したと思います。

そうです‥

「ひとの名前」とは、「マサニエロ」です!

「マサニエロ」という反乱の首謀者の名前の背後には、遠く離れた保阪嘉内がいます。

そして、「操」とは、“ただ一度の恋”に対する「みさお」です。
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