ゆらぐ蜉蝣文字


第8章 風景とオルゴール
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8.1.17


. 春と修羅・初版本

「  (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)
 このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
 かんがへたのはすぐこの上だ
 じつさい岩のやうに
 船のやうに
 据えつけられてゐたのだから
 ……仕方ない」

【第1章】「春と修羅」の「習作」(1922年5月14日)です。一番上の段(横書きのEブックでは、いちばん左)には、れいの「とらよとすれば その手から ことりはそらへ とんで行く」という北原白秋の『恋の鳥』の修正版が書いてあります。

この詩は、ギトンの推測では、保阪から返事の手紙が来た直後に書かれたものですが、

がけ(おそらく花巻城址)の上から見た時には、いま歩いている灌木の藪が、「岩のやうに/船のやうに/据えつけられてゐた」ように見えたと言っています。「岩のやう」な「船」とは、軍艦をイメージしていると思います。

高等農林時代の保阪との昂揚した気分を思い出して、軍事的拡張や“海外雄飛”「太平洋新文明」への憧れの記憶を、それに重ねているのだと思います。

「……仕方ない」という言い方が、現在(1922年)の賢治は、そうしたナショナリズムとは距離を置いていることを示しています。

「(あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)」

も、そうした《熱狂》の時代を、回想しただけで頭痛がしてくる悔恨の悩ましさを、よく表しています。

これは、詩集『春と修羅』の最初のほうですが、そのあとの諸作品には、ところどころ、“アウトサイダーへの関心”が見え隠れしているのも気になります。

「日蓮主義の呪縛から離れた賢治には、豊かな感受性の解放と自己の世界の拡張があったといえる。」

「『超人』を目指す日蓮主義においては触れられることのなかった『本能』の部分がその存在を認められ、『春』の生命の始まりと共に自我が全体として肯定される。それが『春と修羅』においては、過去に遡及する時空の中で、自らの心象の基底をなす古代的な悪漢として捉えられるところに、独自性がある。国家主義的な世界観に自らの位置づけを見出すことのできなかった賢治が、その過去の世界への遡及の中で『達谷の悪路王』や岩手山の鬼伝説を蘇らせ、そのアウトサイダーへの感受性を描いていることは興味深い。」
(秋枝,op.cit.,p.333)



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