ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.12.4


この時、夜行列車の中で、賢治の気分は明るかった──とギトンが思う理由は、他にもあります。それは、8月9-10日の“まる二日間の空白”の間の行動にかかわります。じっさい、賢治は、ひと仕事終えて満ち足りた気分だったと思うのです‥

ちょっと考えてほしいのですが、北海道の真ん中で、まる二日間のヒマを与えられたとしたら、宮沢賢治は、何をするでしょうか?

いまどきのギトンなら‥あなたなら‥層雲峡に行きたい、摩周湖に行きたい、タラバガニが食いたい、ステーキが食いたい、ススキノでやりまくりたい(←オット^^;)‥いえいえ、○チンコとかね。そういった楽しみに費やすでしょう。

しかし、宮沢賢治は、仕事熱心な教師なのです。それも、熱心の上に超が3つついてもいいくらいの‥

北海道といえば‥賢治は、翌年の1924年5月18-23日に、生徒たちを引率して、札幌・小樽等の修学旅行に訪れ、帰着後、『復命書』(報告書)を書いて学校に提出しています。
『復命書』を見ると:

函館:過燐酸石灰の肥料工場を見学。

小樽:小樽高等商業学校を参観。

札幌:札幌麦酒会社、帝国製麻会社(社長の講演を聴く)、北海道大学(総長の歓迎を受ける)、中島公園植民館、北海道石灰会社。

苫小牧:製紙工場を見学。白老を訪問。

など、観光地めぐりではなく文字どおりの“修学旅行”──見学、訪問が盛り沢山です。
とくに、札幌の北海道大学、帝国製麻会社、小樽の小樽高商☆などは、事前に依頼しておかなければありえない日程です。

☆(注) 小樽高等商業学校には、小林多喜二と伊藤整が、この前後に在学していますが、もちろん2人ともまだ無名でしたから、賢治は知りません。それよりも、外国語教育の重視と、北方への関心が、小樽高商と賢治の接点です。

前年8月段階で、すでに翌年の修学旅行が予想できていれば(修学旅行は毎年あるのですから、予想できていたはず‥)、熱心な教師が、その下調べをしないはずはないと思うのです。

賢治は、8月10日は小樽にいたはず‥という推測を何度か述べましたが、賢治の主要な意図は、修学旅行の見学先の物色・下見だったと思うのです。《手宮洞窟》も、その候補として行ってみたにちがいないと思います(けっきょく、修学旅行では訪れませんでしたが)。

9日・10日の2日間にわたって、札幌・小樽を歩いて、いろいろの見学先を見いだし、充分な成果を上げたので、10-11日の夜は、自分に、急行二等寝台★という“ご褒美”をあげたのではないでしょうか?

★(注) 当時の“二等寝台車”が、どのくらいの“贅沢”だったかについては、次のような逸話があります。1931年、『東北砕石工場』に技師兼営業担当として勤めていた賢治は、例の“大トランク”に石灰製品の見本を詰めて、東京へ売り込みのために出張しましたが、9月20日上野着と同時に発熱して病床に倒れてしまい、27日になっても回復のきざしがなかったので、父に電話し、“もう私も死にますから、最後にお声を聞きたくて‥”。驚いた政次郎氏は、東京の知人に頼んで、東北本線の“二等寝台”を手配させ、賢治を花巻に送り返させたというのです。

この旅行中はじめて乗る寝台車で、賢治は、盛りだくさんの見学先候補を手にして、校長、同僚、生徒たちの顔を思い浮かべ、ゆったりと満ち足りた気分だったと思うのです。それが、「噴火湾(ノクターン)」という作品の背景に流れる作者の気分なのです‥

. 春と修羅・初版本

01稚(わか)いえんどうの澱粉や豪烽ェ
02どこから來てこんなに照らすのか
03  (車室は軋みわたくしはつかれて睡つてゐる)

「えんどう」は、エンドウ豆ですが、未成熟の莢は“さやえんどう”として野菜になり、あるいは中熟の軟らかい種子をグリーンピースとして用い、成熟した種子は、青エンドウ、赤エンドウとして煮豆や和菓子などに使われます:画像ファイル:えんどう豆

「稚(わか)いえんどうの澱粉」というのは、ちょっと意味不明です。未成熟の豆は、澱粉をあまり含んでいないからです。まぁ、緑色の粉のイメージを思い浮かべておきましょう。「豪焉vも、ここでは金緑石ではなく、キラキラ光る緑色の微粒子でしょう。

二等寝台の暗いスペースで、これらの微粒子がきらきらと漂っている半覚睡の夢のために、なかなかぐっすりとは眠れないのです。

「車室は軋み」──列車の揺れで、客車の寝台は、きぃきぃと、気になる高い音を立てています。
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