ゆらぐ蜉蝣文字


第7章 オホーツク挽歌
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7.8.5


平安時代以後、「すがる」という言葉は使われなくなりますから(万葉集以後の古典には用例がありません)、近代の国語学者や文学者が、“スガルの細腰は、美女の基準”などと言うのは、自分の時代の基準にあてはめた誤解にすぎないと思われます☆

☆(注) うがって言えば、この“誤解”は、女性の性欲を蔑視し、男性の肉体美を否定した抑圧的時代のホモフォビアにもとづくものと考えられます。

もっとも、宮沢賢治もまた、“スガルは、細腰の美女の比喩”という辞書の(誤った)説明を読んでいた可能性はあるでしょう。

しかし、賢治は、辞書などの学問的権威よりも、自分の感性を優位におく人です。それは、しばしば行き過ぎるほどです(たとえば、漢和辞典にない漢字を、自分で作って使っていたり、漢字の字顔(じづら)によって、辞書に無い意味で使っていたりすることがあります)。

そして、賢治ほど、日本の文学的伝統に囚われずに、独自の領域を切り拓いた詩人はいないのです。




. 春と修羅・初版本

01蜂が一ぴき飛んで行く
02琥珀細工の春の器械
03蒼い眼をしたすがるです
04 (私のとこへあらはれたその蜂は
05  ちやんと抛物線の圖式にしたがひ
06  さびしい未知へとんでいつた)

「抛物線(放物線)」は、二次曲線(楕円、双曲線、放物線)の中でも、最もとらえどころのない感じがする曲線です:放物線

楕円曲線は、広がってゆくように見えても、いつかは有限遠方で閉じますし、双曲線は、しだいに一定の傾きの直線に限りなく近づいていきます(漸近線)。

しかし、放物線は、いちど離れて行ってしまうと、もう一本の片割れとは、二度と出会うことがなく、ひたすらに無限遠方へ向かって行きます。しかも、一定の傾きに近づくこともないので、漸近線もありません。
まったくとらえどころのない「未知」の彼方へ向かって、どこまでも行ってしまうのです。

この・現れたと思ったら、どこかへ飛び去ってしまったスガル(ジガバチ)は、たしかに、作者がいつか出会った人物を隠喩しているようにも思われます。

ギトンは、賢治が3日前に栄浜で出会った青年のことを、思い出しているのではないかという気がするのです★

★(注) 上で論じたように、スガルは、主に美形の若い男性を想起させると考えてよいのです。亡くなったトシ子や、まして‘賢治が失恋した女性’などを想定する必要はありません。
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