ゆらぐ蜉蝣文字
□第7章 オホーツク挽歌
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鈴谷岳(チェーホフ山)頂から、北方へ続くサハリン島
【70】 鈴谷平原
7.8.1
「鈴谷平原」は、「オホーツク挽歌」「鈴谷平原」から3日後の8月7日付です。
この間は、大泊(現:コルサコフ)、豊原(現:ユジノ・サハリンスク)で、生徒の就職依頼や各所(おそらく樺太庁博物館など)の見学をしたり、同窓生の宴会に出たりしていました。
8月4日の深夜に、栄浜から豊原または大泊に戻った賢治は、そこで、樺太出張の本来の目的である就職依頼活動をしたと、ギトンは考えます。なぜなら、8月5日は日曜であり、依頼の相手方である細越氏も、十分に時間をとって会うことができたと思われるからです。
賢治の知人たち(盛岡中学・盛岡高農の卒業生ら)によって歓迎の宴が開かれたのも、この日曜のことと推定できます。
「鈴谷平原」のおしまいには:
. 春と修羅・初版本
32こんやはもう標本をいつぱいもつて
33わたくしは宗谷海峽をわたる
とあるように、7日の夜の船で大泊を出港しています。
「標本をいつぱいもつて」とあるところを見ると、6-7日は、“鈴谷平原”での植物採集に費やしているかもしれません。
“樺太八景”のひとつである“鈴谷連峰”☆は、鈴谷岳(現:チェーホフ山; 標高1045m)を最高峰とする《鈴谷山脈》に属します:画像ファイル:鈴谷山脈
☆(注) 『新校本全集』「年譜」は、「鈴谷平原は、鈴谷岳を中心として旭ヶ丘(樺太神社がある)、豊原公園をふくむ一帯で、樺太八景の一つ。」と説明していますが、誤りです。山岳を中心とする平原はありえませんw なお、宮澤賢治のサハリン旅行について書いた文献は、たいてい、賢治は当然に“樺太神社”を参拝したと書いていますが、理解に苦しみます。資料的根拠がありませんし、賢治はそんなに神社が好きではありません。
なお、豊原公園(王子ヶ池公園)は、現在は“ガガーリン記念公園”と名前を変えていますが、ユジノサハリンスク(豊原)市民の憩いの場となっています。冬季は、“氷中水泳”トレーニングが盛んです。“樺太神社”の跡地もすぐ近くにあり、巨大鳥居はそのままですが、もっと巨大な赤軍兵士の像に隠れています。
宮沢賢治が「鈴谷平原」と呼んでいるのは、“鈴谷連峰”西麓の豊原郊外の平原〜丘陵地と思われます。
このスケッチにも:
. 春と修羅・初版本
16鈴谷平野の荒さんだ山際の燒け跡に
17わたくしはこんなにたのしくすわつてゐる
と書かれています。
鈴谷岳は、豊原市街からはやや離れています★:
★(注) 日本語版 Wiki によれば、現在登山する場合の所要時間は、市内から登山口まで徒歩2時間半、登山口〜頂上は3時間。鈴谷岳の標高1045mに対して、豊原市街は標高約40m. 1000メートルの登高であり、行くには丸1日を費やすでしょう。
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