ゆらぐ蜉蝣文字


第4章 グランド電柱
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4.14.14


「賢治の原文では『生しののめ』となっているものを、中也が〔…〕『聖しののめ』と記していることで〔…〕、記憶にたよって書いた結果の誤りと見るべきものではあろうが、〔…〕記憶ちがいなら記憶ちがいそのものとして、大変に面白いと思う。〔…〕

 『生』を『聖』と覚え込んでしまうことによって、中也が『生しののめの草いろの火を』という詩句にこめられている肉感性と聖性の相克というか邂逅というか、賢治童話で言えば『若い木霊』などに端的に露頭をみせているような、そうした感覚(それはのちに作者の手入れにより、具体的身体的叙述に変化し、そのことによって、形式的には一応ととのったにもせよ、詩的迫力がこの部分についてはかなり弱まったと私には感じられてならない)を、ものの見事に、そのものずばりの語で把えていることに、私は光を当てたいのである。」

「『生』が『聖』に変るについて、中也の直覚的本質把握のすばやさ、および、耳による記憶力が、大きく作用している〔…〕

 『名辞以前』の世界にふかく分け入るとき、詩人がいやおうなく出会すのは、いやましにつのる『聖性』と『肉感性』とに染め上げられた『異空間』=『ポエジー空間』である。『宮沢賢治の詩』
を書いていた中也が、賢治作品の、とりわけその点に眼を注いでいたことは、ほぼ疑いないところであろう。」

◇(注) 『レツェンゾ』1935年6月号掲載の中原中也の論文。

◆(注) 入沢康夫「「生」と「聖」──中也における賢治問題」,in:『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』,1991,筑摩書房,pp279-285; 引用部分:pp.283,284.

つまり、賢治の:

08生しののめの草いろの火を

という詩行は、「肉感性と聖性の」火花を散らすような「相克と〔…〕邂逅」の表現なのであり、中也は期せずしてそれを言い当てているのだ──と入沢氏は指摘されるのです。

ギトンには、↑この「聖性」というのが、いまいちピンと来ないのですが、
もし、“聖なる世界”=「異空間」⇒“異界”、「聖性」⇒“異界性”と言い換えてもよいのならば、ギトンにも理解できます。

それは、たしかに、『若い木霊』にも、前々nに引用した部分に、「露頭」となって現れているような世界──木霊が跳びこんだ「桃色のかげらふのやうな火」の中の世界──にちがいありません。

ただ、「原体剣舞連」の世界は、『若い木霊』の「鴇の火」の桃色世界とは、少しちがう。。 それは、「草いろの火」が、そよそよと萌えたつ世界なのです。。。

ところで、↑さきほどの引用の中で入沢康夫氏が:

「それはのちに作者の手入れにより、具体的身体的叙述に変化し、そのことによって、形式的には一応ととのったにもせよ、詩的迫力がこの部分についてはかなり弱まったと私には感じられてならない」

と述べていましたが、それは、こういうことです:

【初版本】を発行した後で、賢治は、手持ちの本に書き込みをして、さらに推敲・改稿をしているのですが、「原体剣舞連」についても、何箇所か改変しています。そのうち、とくに大きな変更は:

. 春と修羅・初版本

06鴇いろのはるの樹液を
07アルペン農の辛酸に投げ 
【初版本】

 を

06'若やかに波立つむねを
07アルペン農の辛酸に投げ 
【宮澤家本】

に変え、

08生しののめの草いろの火を
09高原の風とひかりにさヽげ 
【初版本】

 を

08'ふくよかにかゞやく頬を
09高原の風とひかりにさヽげ 
【宮澤家本】

に変えていることです:詩ファイル:原体剣舞連

変更によって、たしかに分かりやすくなりましたが、
「詩的迫力が‥かなり弱まった」と入沢氏は言うのです。
.
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