冬夜沈々。
年明け早々、寒波の影響で厳しい寒さが続く毎日。
ついつい暖房機の温風が心地好すぎて普段よりも更に転た寝率が上がってしまう僕は、当然一日の睡眠時間も相応に多くなっていた。
そんな僕が偶々夕飯を少しばかり食べ過ぎた休日の事、その逐一をテーブル向かいから眺めていた同居人に「冬眠の準備?」とからかわれた。
けれども我が事ながら強ち「有り得ない」と言い切れない心持ちになる程、この僕の体は断続的な酷い眠気を訴えて自身から意識を強制的に奪い取ってしまう。
結局、その日の夕飯の後にも両の瞼は容赦なく重くなり始めて忽ちウトウトと船を漕ぎ出す勝手な身を取り敢えず床へ横たえたが最後、途切れた記憶の先で暫く僕は眠ってしまったようだった。
途中、同居人の声が何度か自分へ話し掛けていた気もするが、目覚めて間もない頭では中々それらを思い返せない。
眠りに落ちて直ぐ「床じゃなく布団で寝なさい」と毎度の小言を聞いたような覚えが有り、返事など返せない状態の僕の間近で重い溜め息が溢され、幾つかブツブツと呟かれた言葉と共にフワリと柔らかな何かが自分を覆ったのを感じた。
その証拠に今、床の上で目覚めた僕の肩には最近彼女が購入して来たウールブランケットが乗っていて、それを掛けてくれた人への礼を言おうと体を起こす。
が、そこに居る筈の彼女の姿はリビング中を見渡せども無くて、僕は寝起きの子供が母親を探して呼ぶような掠れた声で言う。
「……先生……?」
と、口にして数秒待ったが返事は返らないし、やはりのどこにも同居人の気配すらも感じない。
僕は室内を見回していた視線を壁に向け、そこにある時計が21時を少し過ぎている事と、その下のハンガーに掛けてあった彼女のコートが無くなっている事を確認する。
「こんな時間に、どこへ……」
そう言い掛けた僕の背中側、ベッドサイドに置きっぱなしだった自分の携帯が不意に呼び出し音を鳴らし始めた。
それを横着にも腕と体を伸ばしただけで引き寄せて表のディスプレイを見れば、電話の相手は部屋から消えた彼女その人だった。
通話ボタンを押して電波を繋ぎ、僕が最初の「もしもし」を言うより先に受話器から名前を呼び掛けられる。
『瑞希君?起きた?それとも起きてた?まだ眠い?』
と、一気に口にされて答える前に僕は小さく苦笑う。
「……一応、起きてたよ。まだちょっと眠くはあるけど、何か僕に用?先生」
用事も無く電話を掛けて来る事は無い同居人へ問い返せば、相手は素直に『うん』と頷いた。
『あのね、少しだけ外に出て来てくれない?寒いから無理にとは言えないんだけど、もし来てくれるなら一杯奢るわ』
彼女が言う「一杯」が缶コーヒーの一本だと分かっていた僕だが、特に考える必要も無く自分も頷いて返す。
「もちろん行くよ。……で、今どこに居るの?」
答えつつ、床を立ち上がって壁に掛けてあった自分のダウンを片手で掴み、部屋の暖房と電気を消して玄関へ向かう。
その間に彼女から説明された場所はマンションに面した通りを恐らくは北に進み、普段余り通らない裏道沿いの真新しいコインランドリー前のようだった。
不確定部分のある前述の理由は、生来の方向音痴な同居人が偶に自身でもどう歩いて辿り着いたのか説明出来ないと言う事が過去にも多々あり、正に今現在も彼女本人には見慣れない周囲の景色を説明された上で僕が大凡推測した居場所だからだ。
「……大体分かった。直ぐに行くから、そのランドリーの店内にでも入って待ってて。……OK?」
携帯を両手で代わる代わる押さえながら上着に腕を通して足早に階段を下りて行き、車の行き来も少ない通りを右側に折れる。
『OK。気を付けてね』と悪びれもしない人の声に笑う。
「うん、……急いで転ばないようにする」
そう答える僕の耳に彼女の笑い声が届いたのを最後に通話は切れた。
携帯をポケットに仕舞い、更にまた道を右に曲がり夜道を進む。
「……けど、案外寒くは無いな」
顔を撫でる外気は予想よりも冷たくは感じず、歩みを止めないまま街灯の下から夜空を見上げる。
と、星達の姿は無い代わりに厚い雲が天を覆っているのが見えた。
「雲凍り……雪降らんと欲せども未だ降らず、かな」
こんな時間の寒い中に同居人が出掛けた理由は聞いていないが、同じ空を彼女も見上げていれば多分それを願っているだろうと想像出来る。
「……物好きだからな、……ホント」
雪が降っては喜び、雨にも嫌な顔一つせず嬉しそうに傘を差して仕事へ出掛ける社会人は少ないと思うのに、同居人はその一人だった。
だから、僕が暫くして辿り着いたコインランドリーの窓際に座っていた彼女は案の定真っ暗な夜空をぼんやりと見上げいた。
そして僕の姿に気付くと自分から店内を出て来て、ほんの少し苦笑いで言う。
「早かったわね。この場所だって直ぐ分かった?」
と、傍らまでやって来る人へコクリと頷く。
「ん……まぁね。新しいランドリーって目印があったから、今回は楽だった」
彼女を見て内心ホッとしながらも僕は辺りの建物を見回してこう尋ねた。
「……で。先生は、ここに……何か用事があって来たの?それは、もう終わった?」
コインランドリー以外は特に開いている店舗も無く、アパートや民家が建ち並ぶ周囲の景色に目を向けた彼女も再び苦笑いが漏らす。
「別に何か用事があったとか、ここへ来ようと思ってた訳じゃなくてね。ちょっとだけ散歩序でに自販機を探して歩いてみたら、偶々この場所に着いたって感じで……キミに電話してみたの」
「起きててくれて助かったわ」と言った同居人が徐にどこかへ向けて歩き始める。
取り敢えず僕も後ろを付いて歩くが、どう考えても帰り道とは逆方向なので一応に声を掛けた。
「……先生、こっちに何かあるの?」
すると、コートのポケットから財布を取り出した彼女が振り返ってコクンと頷く。
「あるわよ、自販機が。さっき電話で一杯奢るって約束だったでしょ。それにね、実はこれもキミに見せたかったの」
ウフフと微笑んだ人が指差した先には確かにコインランドリーに併設された自販機が数台並べられていて、その内の一台は僕も初めて見るものだった。
「へぇ……缶コーヒー専用の機械か、……珍しいね」
様々な飲料メーカーの缶コーヒーだけを集めた自販機は塗装にも一面焦げ茶色のコーヒー豆が描かれて中々目立っている。
「でしょ?キミは結構缶コーヒー好きだから面白がるかなぁと思って」
「さ、何が良いの?」と早速硬貨を投入した彼女に急かされ、流石の僕も迷って笑う。
「面白いけど……ちょっと待ってよ。折角先生の奢りなんだから、選ばせて」
ディスプレイに飾られた缶それぞれを一通り眺め回す僕の隣で同居人が尋ねて来る。
「そう言えば、瑞希君。コーヒー飲んでも大丈夫?冬眠出来なくならない?」
と、明らかに自分をからかった声を聞き、チラリと彼女を見るとやはり口許が笑っていた。
なので、僕は「大丈夫」と返事をする代わりのようにブラックコーヒーの缶を選んで押した。
「この位のカフェインじゃ、僕の眠りの妨げにもならいよ。……寧ろ、帰ったら直ぐ冬眠出来そうな勢いだし」
取り出し口から缶を掴みあげつつ、ふああと大きな欠伸をする僕を見る彼女は小さな溜め息を吐く。
「お疲れ様……、寒い中を来てくれたせいで今夜食い溜めの体力を使わせちゃったわね。精々、眠りに入るのは部屋に帰ってからにしてよ。ホント頼むから」
自分の分のカフェオレの缶も買い、それを両手に握って寒そうに暖を取る人を見下ろして頷き返す。
「……分かってる。それじゃ、戴きます」
音を立てて開いた缶の口から白い湯気が立ち上り、僕は最初の一口を飲み込む。
芳ばしい豆の香りと苦味が喉を通り過ぎ、夜気で冷えた体をほんのりと内側から温める。
「……ん、やっぱり……冬の缶コーヒーも悪くない」
そう呟いてから、ふと僕は隣でカフェオレの缶を開けて飲もうとしていた人の顔をじっと見つめた。
「先生……。もしかして、コーヒーが飲みたかったから……買いに出たの?」
今更ながらに気が付いた事を問うと、こちらを見上げた同居人が曖昧に笑う。
「元々缶コーヒーで良いと思ったから、キミが寝ている間に一人で買って帰ろうと思ったのよ。なのに、ちょっと予定が狂っちゃって……でもまぁ、面白い発見も出来たから良いか」
自己完結して缶を傾けた彼女はコクリと一口中身を飲んで「甘いわね」と呟いた。
その様子を眺めていた僕も二口目のコーヒーを飲み、こう言ってみる。
「別に、……起こしてくれても良かったのに」
部屋でのコーヒーはいつも僕が淹れていたから、もしかしたら寝ていた自分を起こすのを躊躇った同居人が缶コーヒーを買いに出る事を思い立ったのかもしれないと考えて口にした言葉で彼女が首を横へ振る。
「それが面倒だったから買いに出たのよ。冬眠を邪魔しても悪いしね」
と少し意地悪で可愛いげの無い返事をして笑う顔を横目で見下ろし、ある意味もっと意地悪な僕はこんな質問を投げた。
「ねぇ、……先生?僕が本当に冬眠したら……どうする?」
そんな風に聞いた瞬間、彼女は瞳を見開いて僕を見上げる。
「どうするって、……何が?人間は冬眠しない生き物でしょ?」
キョトンとした視線と向き合い、コクリと頷く。
「そうだけど……もし、万が一そうなったら……先生、少しは困ってくれる?」
質問の意味を飲み込むみたいにして、彼女は手にしたカフェオレの缶を傾けては何かを考えるように瞳を僕から逸らした。
「万が一とか言われても……それを聞かれる方が困るわよ。第一、何で私が……」
「困るの?」とでも言おうとした人が、はたと言葉を止めて顔を夜空に向ける。
そうして、表情を一転させると僕を見て言った。
「瑞希君、雪よ!ほら、初雪!予報が当たったわ!」
今朝のニュースで流れた天気予報が小雪の舞う可能性を告げた時から期待していたらしい彼女が嬉しそうに微笑む。
フワリ、フワリと降りて来る小さな氷の結晶を掌に受け止めては満足げに彼女の瞳が細まる。
僕は一言「良かったね」と答え、無邪気な人の隣で缶コーヒーを飲みながら見守った。
「……冬有雪。若無閑事挂心頭、便是人間好時節」
思わず口にした僕の言葉を聞いた彼女が振り向き、小首を傾げて「何?」と問う。
それへ笑い返し、答える。
「冬には雪が降る。……それだけの事を先生みたいに楽しめれば、人生も悪くないって話」
言って、持っていた缶の中身を全部飲み干して空き缶入れにカランと落とす。
「さて……本格的に降って来そうだし、続きの雪見は部屋に帰ってからにしよ。……ほら、帰るよ。先生」
いつまででも夜空を見上げていそうな人を残して先に歩き出すと、慌てた声が「待ってよ」と答える。
僕は数歩だけ進んだ所で立ち止まり、彼女が自分の缶のカフェオレを飲み切って駆けて来るのを待つ。
「ゴメン、お待たせ」
そう謝った人が隣に並ぶと、その手を握ってコクリと頷いた。
「ん。……じゃ、帰ろ」
マンションへの帰り道を歩き出した僕達の上に降る雪は徐々に粒の大きさを増す。
それを飽きもせず見上げていた彼女が突然思い出したように僕の顔を見て呼び掛けて来た。
「瑞希君……、あのね」
と若干言い淀んだ声に「何?」とだけ返事をすると、同居人はこう僕に問い掛ける。
「キミ、……本当に冬眠なんかしないわよね?」
聞かれて直ぐ彼女を見下ろせば、その顔は案外真面目な風だったので僕は笑い出したいのを堪えて答えた。
「しないよ。……と言うより、貴方が心配で冬眠する暇も無いね。ホント、そんなのは一生出来そうも無いから……安心して良いよ、先生」
そう囁き掛けた耳元が、街灯の下で真っ赤になっているのが見える。
僕は堪え切れずに笑って、その可愛らしい形にキスを落とした。
【end】