原作沿い長編

□夢見鳥は艶に舞う
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明治十年、師走────。

灰色の雲の、今にも白粒が舞いそうな空の下名無しさんはいた。
父の勤めていた警察署とはまた違う威圧感を放つ警視庁。

父の通夜から五日。
埋葬は滞りなく行われ、警察署に赴き置かれたままの父の荷物も引き取った。
内職の残りの分を終わらせ持ち込みも済ませた。新しい分は断った。

父との別れが済んだら来い、と言われてからの五日が世間的に遅いのか早いのか分からない。
ただ名無しさんからしてみれば最短期間でやって来た。本当に働かせてもらえるのか不安だったということもある。
女の奉公先と言えば家事から派生した食事処か女中が主であったこの時代。
果たして自分はここで働いていけるのだろうか。

門番の怪しまれない程度にウロウロとすること一刻。
入るのを憚れて困っていた。
藤田の名を出せば良いのだろうか。
そもそも人事を個人の勝手で決めれる程の立場のある人に約束無しで訪ねて会えるのか。
出来れば門を出入りしてくれれば一番ありがたいのだが…。
冷えてきた掌にほおっと息を吹き掛けた。

────
その頃斎藤は…

「藤田君、どういうつもりだね?この不景気に人員を勝手に増やすなど!
しかも若い女だとか?そんな者に仕事を任せられるのかね?まさかとは思うが私情を行使しているんじゃないだろうね?」

「下世話な推測はやめて頂きたい。
俺は川路警視総監から有能な人材は独自判断で登用して良いと許可も得ている。」

口うるさい警視を尻目に淡々と川路の名前を出せば幾らか声色は納まったがその後もネチネチと続ける。

「聞けば事務事をやらせるとか。名家の出でもない女が文字の読み書きは最低限できるんだろうね?」

「明治から十年。名家の女だけが字を扱えるという考えは古いのではないですか?
女から恋文をもらった事はおありですか?
男の色気の無い字よりも、女の柔らかく伸びやかな字はそれだけで仕事も捗る。」

長屋で見た名無しさんの字がふと頭を過る。
後ろの警視は赤い顔で言い返せずに睨み付けているが知ったこっちゃない。

「失礼します。
外を彷徨く不審者を尋問しましたら、藤田警部補にお会いしたいという女がいるのですが…」

「…来たか。」

ニヤリ、と斎藤は静かに口角を上げた。


────

立派な応接間は要人にしか使用出来ないため、名無しさんは署内の一角に衝立で仕切られた簡素な空間へと案内された。

衝立の向こうからは隠そうともしない好奇の視線を幾つも感じる。男所帯の警視庁では女というだけで注目を浴びる。
まるで島原の見世の様だと、遥か昔の記憶が過る。

制服に身を包んだ若い警官がお茶を運んでくれた。冷えきった手に嬉しい気遣いに会釈と微笑みを返せば、周りからため息が溢れる。
見目麗しい女の突然の来訪に署内は完全に浮き足だっていた。

なんて綺麗な人だろう。
誰かの奥方かな?
藤田警部補への面通り希望らしいぞ。
藤田警部補って、あ、あの藤田警部補か!?

ひそひそと盛り上がる警官達の群れは、現れた斎藤にも気付かず続ける。

やれやれ。
やはり一目を引く名無しさんの容姿ではこうなるか…。どこか予想は出来たが期待を裏切らない周囲の反応にため息を吐く。
名無しさんに与える仕事に内勤の事務職を考えていたがこれでは安田の様な存在を増やす恐れもある。

「…あ、藤田様。」

長身の斎藤は衝立の遥か上に頭が出る。
斎藤に気付いた名無しさんが立ち上がり挨拶をすると、周囲の警官は蜘蛛の子を散らしたように退散していった。

「すみません、お忙しかったですか?」

「気にするな、万年の事だ。
別れは済んだのか?」

「はい。無事母の横に休ませてあげる事が出来ました。」

ジッと名無しさんの顔を見つめ、その眼差しに名無しさんが首を傾げる頃、とても優しい声で斎藤は尋ねた。

「ちゃんと泣けたかと聞いているんだ。」

泣きたいけど泣かない、あの日の名無しさんがひどく気になっていた。
唯一の肉親を失い、一人の長屋で過ごす間に一度でも心を解放させてやれたのか。
斎藤の問いかけに、一瞬だけ呆けた後しっかりした笑顔で答えた。

「父はようやく母の側に行けたのです。泣くことなどありません。」

私は…少しだけ寂しいけど。
まるで父親が巡り会わせてくれたように目の前の優しい人が生きる道を示してくれたから。…。

「だから、大丈夫です。」

その“大丈夫”は、本当の“大丈夫”。
強がりでもなく、現実逃避でもない。
斎藤もその顔から真意を汲み取ると安心した。

「結構。
だったら遠慮無く働いてもらう。」
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