⊂ESSEY&NOVEL⊃

□運命に絆されて
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GO DOWN

 セメント色の分厚い雲.....無風....乳白色の霞がうっすら立ち込めている。

 見覚えのない無気質な街....。

 誰もいない歩道を独りぼっちで歩いている。

 額の真ん中に意識を集め、記憶を辿る...けれど頭の中は空っぽで何も思い出せない...いったいここはどこなんだろう。


 「記憶喪失...耳にしたことはあるが、自分にとって無縁でリアリティのない言葉...」そんな大それたことを考えると不安に駆られ始めた。


 初めて訪れた場所...無意識に立ち止まると、小さな鼓動が波紋のように、ゆっくりと広がり出した。

 「子供の頃、家族で桜見に出かけたその帰り道、迷子になってしまい、孤独感と絶望感に襲われ泣き出してしまった時のことを思い出す...」

 ほんの5分前のことさえ思い出せないのに、蘇った記憶は遠い日の少年時代の記憶...。それでも一つの記憶が蘇ったことで、少しホッとした。


 重たい足に力を込めて、取りあえず再び歩き出した。

 街路樹の陰から、曲がりくねった青い標識が、すまなそうにうなだれている。

 手掛りになるはずの標識だった...。なのにペンキが風化して剥がれ落ちていた。

 何号線なのか分からないが、とにかく左側は中央分離帯のある、片側2車線の道路だ。

 車は走っていない....行き交う人もいない。

 シャッターの降りている商店が目に付く。だが、それ以外の店も扉は閉め切られていて、とても営業中とは思えないほど、人気も活気も感じられない。


 静寂に支配された街、そんな空気がこの辺り一帯に漂っている...自らの意思で眠っているのか、何かによって眠らされているのかは分からないが...。


 少しの間も意識を集中させることが出来ない。暑い夏の昼下がりのように、頭がぼんやりとしている...感覚が鈍い。

 視界も...双眼鏡を覗き込んでいるように狭く感じる。

 それにしても奇妙だ...目に映る世界は、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした朝の風景...それが、頭の中では、雑踏も騒音もある夕方の繁華街を強く意識している。情景と相反する不思議な感覚。


 こうして誰もいない幻想的な街を歩いていても、身体の芯をつま弾かれるような恐怖はない。

 けれど、後ろを振り返ることに、強い抵抗感を覚える。それは、背後の景色を感じることが出来ないからだ。いや...むしろないと言った方がいいのかも知れないが、背後には巨大な壁があり、その壁はピッタリと、背中に張り付いて来るような感じがする、まるで1歩も後戻りを許さないように...。

 さっきからそのことを意識する度に、気分が悪くなってしまう。

 なんとなく身体がほんの僅か上に引っ張られる...ちょうどエレベーターで階下に降りる時、一瞬ふ〜っと中に浮きそうになるあの感覚に近い。


 この静寂に満ちた街の向こう側に、いったい何があると言うのだう...。

 もうすぐ今歩いているブロックが終わる。?...左の先に自転車が2台倒れている。そのうちの1台が朱色の、四角い郵便ポストを直撃していた。

 右上にはコゲ茶色ののぼりが斜めに突き出ている。?...それが何を意味するのかは分からないが、何となく記憶のどこかを刺激したようだ。

 「?...次のブロック...次のブロックに何か手掛りがありそうな予感がする...」


 胸騒ぎが起こる。このブロックの終わり...右側がとても気になりだした。そこは、この道路と交差している一方通行の路。そしてこの次のブロックは...そうだ思い出した、1ブロック全体を「緑の公園」が占めているんだ。

 ここだぁ...霞の向こうに浮かび上がるホテルの輪郭が微か見えた。あのホテルに行かなければいけないんだ。

 それがどんな目的なのかは未だ分からないが...。


 ホテルは「緑の公園」の裏側に立っている。ここから100メートルほどだろうか。とにかく行ってみることにした。

 しかしホテルへ行くには、この角を曲がり一方通行の路を真っ直ぐ進み左に折れるべきか、それとも、もう1ブロック先まで行ってから、右に曲がり行くべきか微妙な位置に見えた。


 取りあえず少し遠回りに思えたが後者を選択した。

 右手には壁一面の緑。それは気持ちが良いのだけれど、気が付けば未だ人も車も見かけていない。

 あれからどれくらい経ったのだろうか....。

 気を紛らすように生い茂った緑を眺めながら、目一杯空気を吸い込み急ぎ足で歩いた。



 ホテルに近づいて行くと、だんだんその姿がはっきりとしてきた。

 アイボリーとゴールドを基調とする、洋館風の豪華な作りだ。...随分立派なホテルだ...格調の高さに圧倒される。


 ホテルには思っていたよりも早く到着した。

 中央に大きな回転扉がある。その両脇に、2人のドアマンが立っていた。

 「....回転扉かぁ...苦手だなぁ...左から右へ流れて行く仕切り...どうしてもその前のスペースに入りたいという心理が働いてしまう...1枚の仕切り、1つのスペースをやり過ごせばいいだけの事...それは理性では解っている。けれども人間心理と言うものはそう単純なものではない。頭では理解していても、身体が別の反応をしてしまうことはよくあることだ。事実、スペースに飛び込んだ瞬間、後ろの仕切に踵を強打した苦い経験が何度かある。こんな危険なモノをビジュアル重視で、安易に設置してしまう意識に欠陥があるのだ...」


 笑顔で迎えてくれた彼等には悪いが、隣にある普通の扉を押して中に入った。


 「...ところで...ここで何をするんだ?...ホテルの中に入ったのはいいが、この先を思い出すことが出来ない」

 取りあえずロビーのソファーに腰を下ろし、そこでもう一度考えることにした。

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