夢_Short
□牧と柚子湯の日(牧)
1ページ/1ページ
行くつもりは無かった。
週末にはまだ早い火曜日の夜。早くも仕事の雲行きは怪しく、予定外の残業に心はすっかり擦り減っている。
想定外の事態に周りは苛立っていたし、自分もミスが多くて謝ってばかりだった。
嫌な事ばかり反芻してしまう。どうしよう。
頭に思い浮かぶのは恋人の顔だ。
会社の外に出ると強い風が吹き付けて、暑いぐらいだった室内で温まっていた筈の身体は急速に冷えていく。
鞄からスマートフォンを取り出しリダイヤルから通話ボタンを押す。数コールの呼び出し音の後、留守電の音声が流れた。
そっと終了ボタンを押した。急に誰からも見捨てられたような気持ちがして悲しくなった。
いつでも来てくれていい、と合鍵は渡されている。使ったことはないけれども、行っていいだろうか。
無性に牧に会いたい。
ただ、ぎゅっと抱きしめて欲しい。
気づけば電車に乗っていた。
ピークを過ぎた電車はそれほど混雑していない。
飲み会帰りのサラリーマンに混じって電車に揺られ、牧の住む最寄りで降りた。
駅から徒歩数分のマンションを見上げる。
居るだろうか。
不在だったらどうしようか。
さっき電話に出なかったのは、自分以外の、誰か別の女の子と居たりして。
取り留めのないネガティブな想像まで頭に浮かぶ。少しの不安を抱えながらマンションのエントランスで牧の部屋の番号を押した。
すぐに扉が開く音がした。良かった、居た。どきどきとしながらエレベーターに乗る。
ゆっくりと昇っていくのがもどかしい。
開いた扉に急いた気持ちで身体を割り込ませるようにして外に出て牧の部屋の前に立つ。
息を吸って、それからチャイムを押した。
歩いて来る足音。開かれるドア。
「急にどうし…」
顔を覗かせた牧にそのまましがみつくように抱きついた。
「おっと」
バランスを崩しかけながら、こちらの身体を受け止めてくれた。
「いきなりだな、どうした?」
お風呂上がりなのか、抱きとめてくれる身体はぽかぽかと温かくて、しかもほのかに柑橘系の爽やかな苦味が香っている。
「…ごめんね、来ちゃった」
「それは構わないが。風呂入ってて、今さっき着信に気づいたとこだったんだ」
冷えてるな、と牧が手を取った。じんわりと温かさが伝わる。
「牧さん、いい香りする」
「ん?ああ柚子か。会社で大量に貰ってな。贅沢に何個か風呂に浮かべて入った」
お前も入れよ、まだ柚子沢山あるし、と牧は優しく笑った。
まだ玄関で靴も脱がずに居たのを促してくれる。
でも今はまだ動きたくなくて、ぎゅっと牧にしがみつくようにしていると、頭をくしゃりと撫でられた。
「お疲れさん」
そして、そっと温かな唇が額に触れた。
くすぐったいけれど、嬉しい。
そして牧さんが動く度に柚子の良い香りがする。
「おでこも冷たいな」
柚子湯であったまれよ、と言う牧に返す。
「牧さんはあっためてくれないの?」
「…今日は随分と積極的だな」
見下ろされる視線。何度繰り返しても慣れずにドキドキする。
「…だって、寒いんだもの」
「いいよ。だから早く上がれよ」
「…うん」
パンプスを脱いで振り返ろうとしたら、そのまま後ろから抱きしめられた。
「あったかい、それにやっぱりいい香り」
「オレももう一回入ろうかな」
一年で一番夜の長いこの日、夜はまだ終わらない。
2021.12.22 (了)