*haikei
□Be my valentine
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「なあ、リー」
合わせて5438回目の拳を振る寸前に、ロック・リーは背後から呼ばれるがままに振り返った。
同じ演習場にいながら、熱心に丸太に拳を打ち込むリーとは対照的に、自身の代名詞である瞑想をするでもなく、さっきからネジは伏し目がちにどこか一点を見つめていた。
「今日は、2月14日だよな?」
今まで何事かを、思考の殻に篭って深く思索していたような彼は、どういう道筋を経てかその問いに行き着いた。リーには人のことをとやかく言うつもりは全くない。自分と同じように、ネジにはネジの時間の使い方がある。貴重な鍛錬を投げ出す程に、それは彼の中で大いに意味があることなのだろう。
「はい……2月14日ですけど」
それにしても不思議なことを聞いてくる。今日は何か大事な日だっただろうか。と鍛錬を中断してリーは思い巡らせてみるが、別に誰かの誕生日でもない。
生真面目に首を傾けるリーに、ネジは真剣な表情のまま更に詰め寄った。
「間違いないよな?」
「は……はい。間違いないです」
揺るがぬ白眼に射止められて、半強制的にリーはぎこちなく頷いた。怒っているのでもないようだが、リーへと前面に押し出されるこの謎の気迫は何なのだろう。どうしても解せないような顔で念を押されては此方も不安になる。同意ではなく覆して欲しいような、変わりようのない現実に立ち向かう、そんなネジの足掻きがどこか垣間見えた。
……そうだよな、と落胆した様相で溜め息を吐く彼は、何かリーには分かり得ない強大な事象と戦っているのかもしれない。
「ど……どうしたんですか?」
最初の勢いをなくして、肩を落としているネジらしくもない姿に、リーはただ訳が分からずそっと尋ねた。だが、最早何の為に足を運んだのか、到頭忍具の一つも取り出さず、ネジはまだ明るい演習場からくるり……と背を向けた。とぼとぼと足を動かし、徐に帰る素振りを見せたネジを静かに目で追っていると、どことなく哀愁を纏う背中が辛うじて力ない声を返した。
「いや。別に、自惚れているわけではないんだ」
Be my valentine
去り際に食らった、“何だか知りませんが、ネジ、ファイトです! 君の青春はまだ終わっていませんよ!”という暑苦しいチームメイトからの要らぬ声援が殊更ネジに追い打ちを掛けた。元気のない自分を気に掛けてくれることは大いに有り難いが大きなお世話である。悪いがリー、もう終わったのだ。励まされたところで今からネジができることなど何もない。今日という日に姿も見せないかの人、というだけでネジの中では明瞭だった。気持ちを告げる前から振られた気分に陥るのはまだ早計だろうか。
テンテンとは修行から任務に至るまで、その殆どを共に過ごしてきた。所謂同班の腐れ縁というやつだ。誰よりも側で彼女の成長する姿を見つめていたし、彼女もまた、無愛想で誤解を受け易いネジをまるく包み込むような安らぎをくれた。何にも代えがたい信頼関係で結ばれていた、そんな彼女を、いつしかネジだけが特別な目で見ていたのかもしれない。
要は、義理にしても、当然チョコレートをくれるものだと、そんな間柄だと思っていた。なのに肝心の今日彼女は不在で、一人ネジは格好がつかないでいる。真面に肩透かしを食らってしまって呆然自失、その後出口の見えない自問自答を繰り返してお陰で修行にも身が入らず、一日を棒に振ってしまった。早い話が、認めたくなかっただけで、自分は彼女にとってその程度の存在だったのだ。数日前から来たるこの日に淡い期待を寄せていたお気楽な脳が熟々馬鹿らしい。バレンタイン――別に貰えたからと言って好物な訳でもないのに何を浮かれていたのだろう。……いや、意味ならあった。彼女が用意してくれた物ならば、何だって。どんなに苦手で食べられない物だって、ネジは嬉しかった。
「ネジ……!」
後ろからパタパタ駆けてくる足音と、高く弾ける純真可憐な声に、ネジは一気に現実に引き戻された。
まさか……と、この日はもう会うことが叶わなかっただろう気配を信じられない気持ちで見遣る。しかし予期した通りのお団子頭が視界の中で跳ねて来る。その二つ揃いの、いつもの姿が、何だか懐かしくてほっとして、どうしようもなく温かなものが込み上げた。彼女のお陰で様々な感情をネジは知った。
ネジの側まで、どういう訳か足を飛ばしてやって来た同班のその少女―――テンテンは、肩で息をしながら少々不安げな顔でネジを見上げてくる。何かあったのだろうか。疑問を抱きつつも直ぐには聞けなかった。彼女の口元からは白い息が幾つも幾つも忙しなく作り出されている。二月の半ばだ。寒い空気を引き連れて駆けてきた彼女は耳も鼻先も桃花色に色付いていた。残雪に寄り添う春の花のように微笑ましいが、きっと触れたらひんやりとしている。それほど、一生懸命に追い掛けたのは、顔見知りのチームメイトをただ単に見掛けたからだろうか。彼女は無邪気で人懐こいから、きっと。
「あの……ごめんね? 今日……修行、行けなくて」
まだ肩を僅かに上下しながら、おずおずと告げるテンテンに、意外に思った。いつもの中華風の衣装にマフラーを巻き、見慣れぬ私物のコートを着込んでいる彼女は、どこかに出掛けていたのだろうと想像がつく。
「ああ、いや……用事があったんだろう? 別に、毎回こっちを優先しなくてもいい」
本当のところ、彼女がバレンタインより優先するものが何なのかが気にならない訳ではない。澄ました顔で余裕を滲ませるのは男の意地だ。彼女のプライベートにネジが踏み込んで聞くのも可笑しい。元よりこの日はガイが不在の完全自主鍛錬の日だった。だから今一気乗りしなかったネジがクナイの一つも出さずに帰宅したって、別に咎められないし、与えられた休日にテンテンがどこへ行こうと自由なのだ。
「ん……そうだよね……ありがと」
常日頃から鍛錬に心を注ぐ質実なネジの、寛容な態度に安心したのか、少しだけテンテンは笑みを見せた。そして何か思い巡らすように口を閉ざす。しかしその場から去ることもしないので、ネジも何となく向かい合ったままでいる。沈黙に包まれた両者の間に木枯らしが吹いた。やはり寒いのだろうか、小さく肩を震わせる桃花色の彼女は、よく見るとふっくらとした唇に仄かに赤味と艶があった。リップクリームでも塗っているようだが珍しいことをする。若しや……と、ネジはそこではっと思い至った。彼女は誰かに、チョコレートを渡してきたのではないか―――?
それは紛れもなく勝手な憶測だったけど。男の勘だ。
急速に目の前にいるテンテンが眩しくなって、居た堪れなくて、ネジは静かに目を逸らした。
分かっている。テンテンがどこに行こうと、自由な筈だ。
誰にチョコレートを贈ろうと、彼女が気に入った人なら。ネジは何も――――。
「あの……それでね? 悩んだんだけど……やっぱり、今日のうちに渡したいな、って……」
テンテンの声がはっきりと聞こえない。いや、もう聞いていたくなかった。しかし長い時間を掛けてやっと顔を上げたテンテンが、何か此方に差し出すので気が進まないながらネジはのろりと視線を上げる。目に入ったのは、悴んだ指先に摘まみ持たれた、ワイン色の小さな紙袋。いとも容易く、テンテンはネジの時を止めた。
「別に、サボってたわけじゃないのよ? 今日って、とっても特別な日で……女の子のための日なんだって。だから……ネジは、こういうの好きじゃないかもしれないけど……折角いの達が教えてくれたから……。あのね、これ、あんまり甘くないチョコレートなの。だから、多分ネジも、大丈夫かなって……」
白い息をふわふわと吐き出しながら、テンテンの桃花色がその頬にまで伝わっていく。顔全体を淡く染め上げて、少し恥ずかしそうにしながら一生懸命にネジへと告げる。あんまり甘くないチョコレートも唇に乗せたリップクリームも、きっと、他の誰かの為ではなく。
―――誰にチョコレートを贈ろうと、彼女が気に入った人なら。ネジは、何も――――。
「……ああ……そう……そうか。悪いな」
「! う、ううん。悪くないよ」
動揺を隠すように台詞だけが先行している。何を言っているのか何が言いたいのか自分でも分からないがテンテンはそれを否定してくれた。
謝ったネジを庇うみたいにお団子頭が横に振れる。付き合いが長くなると遠慮することがなくなって時々ぶつかることもあった。しかし翌日には何事もなかったように謝り出せないネジに朗らかに彼女はみたらし団子をせがんだ。一番側にいて一番ネジを認めていた。何と言えば一番この気持ちが彼女に伝わるのだろう。紙袋に近付こうとして逡巡する指先が、それを今考えている。
「なんか、わたしの方こそ、いきなりごめん。びっくりしたよね」
「ああ……いや、まあ……そんなことは」
申し訳なさげに眉を曇らせるテンテンに、ネジは何だかさっきから上手く返すことができない。歯切れの悪い台詞に添えるように咳払いを試みるがどうもぎこちなかった。完全にタイミングを見失ってしまって伸ばし掛けていた手をそそくさと戻す。そして戻っても行き場がなくて、何となく腰周りの胴着を握り締める。初々しいにも程があるがこの時ネジは無意識だった。上忍にまで上り詰めた柔拳の天才は、たった一人の少女の前でだけ、こんなにも人間らしさを露わにする。
動きがあったのはそんな頃合いだった。互いに黙り込んでから一体どれだけ時間が経ったのだろう。貰い手に貰われないままのワイン色の紙袋を、ぎゅっと握って、遂にテンテンが、意を決した風に真っ赤になった顔を上げた。
「そ、それで、あの、中身、なんだけど……チョコレートとか、何か色々、入っていると思うんだけど……そ、そのっ……あ、あんまり気にしないで!」
――――え?
あまりに鮮やかになった彼女の色彩。モノトーンな風景にあまりに映えるそれに目を奪われている刹那、胸に紙袋が押し付けられた。
じゃあね! とそれからテンテンは一方的に別れを告げて元来た道を引き返す。吹き付ける北風と元気に並走し、木ノ葉の忍具使いは冬空の下をどこまでも駆けていった。
一瞬のうちにネジは取り残されてしまって、何が何だか分からない。ただ呆然と立ち尽くして、見えなくなるまでテンテンの姿を辿った後……取り敢えず、胸元を温めている塊をそっと確認した。
紙袋から出てきたのは、何とも女の子らしい色合いでラッピングされた、目にも愛らしい贈り物だった。これではあげる相手を間違えたのではないかと苦笑してしまう。透明なギフトバッグの入り口が絞られて、二種類のリボンで結ばれている。中にはコロンとした一口大のチョコレートが入っていた。ネジの為の甘くないチョコレート。修行を休んでまで用意してくれた。くるくると楽しげに端がカールしたリボンに、花のような満開の笑顔が重なる。
時間を忘れて大切そうに眺める眼が、ふと何かを見つけた。紙袋を覗くと白い紙が入っている。どうやらメッセージカードみたいだ。
テンテンのことだ。お返しはゴマ団子一年分で、なんてきっと書いてあるのだろう。……仕方ないな、だがいいよと、今とても彼女に甘くなっているネジは、ゆるりと微笑みを浮かべてカードを取り出した。
『――――ネジ。
いつも色々と、助けてくれてありがとう!
これからもよろしくね!
――――大好きだよ。』
――――……これは……。
ゴマ団子も、中華まんの類も書いていない。飾り気のないシンプルなメッセージカードだった。真っ新な其処に浮かぶのは、ただ短い愛の告白。
これを、どうすればいいのだ……。
少し照れくさそうに丸みを帯びた文字に、真面に目が当てられなくてネジは困ってしまう。……恐らく『バレンタイン』だから。女の子のための日だと彼女は言った。これは今日だけに許された、彼女からネジへの特別なメッセージだ。
微かに熱を持った感じのするネジの頬を、現実を教えるかのように冷たい風が撫でていった。お陰で無様ににやけていくのを既のところで抑えられた。
これから先……チョコレートも特別好きになるかもしれない。気儘に予感した。
Happy Valentine`s day with lots of love.
(いつもありがとう)
17.2.14