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□春の嵐
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視界の横から、正確には常人では解せぬ後方から、ひらひらと、無数の花弁が軽やかに通りを吹き抜ける。
思ったよりも早かった桜の終わりは、ネジに淀みなく流れる季を意識させる。
時は卯月。
この春色の花弁を弄ぶ風も、もう間もなく、爽やかな初夏の香りを運ぶ、薫風になる。


任務でもないのに忍装束なのは、常だった。
上忍であるネジには、他の皆と違い、突発的に呼び出しを食うこともある。
その為、花見にしていくのはどうかと思ったが、鈍い輝きを放つ重厚な額当ても、いつものように着けてきた。
幸い仲間の班員には、それを無粋と口を尖らせる者はおらず、却って周りにいた花見客から、あそこに忍がいると、恐々と指を差され、酒に酔って羽目を外す輩を留める、妙な抑止力にもなったようだ。

昼食を終え、花見会場を後にすると、分かれ道に差し掛かるところで、集った皆はそれぞれの行先に散っていった。
リーはこれからアカデミーにいるガイに会いに行くと言い、途中参加だったヒナタは、午後は班での鍛錬があるそうだ。
適度に腹も膨れ、珍しくこれと言って用事のなかったネジは、のんびりと自宅を目指しながら、民家の塀から覗く花盛りの白木蓮を眺める。
薄紫色の、色素の薄い双眸に、音のない景色が投映される。
瞬きで、瞬間毎に切り取られるその静止画は、宛ら写真機のレンズを通したように、精巧に、鮮明に、この春に見た景色の一つとして、彼の脳の記憶装置に組み込まれるのだろう。
恐らく今日見た桜の隣に、それを仕舞い込んだネジは、咲き(こぼ)れる白い花から視線を外し、止まっていた足を動かす。
いつの間にか出来ていた距離を詰め、前方を往く少女の少し後ろにつく。
ネジ一人なら、時間を気にせず眺めてもいられたが、この場にいるのは彼だけではなかった。


一人だけ、帰る方向が同じだからという理由で、ネジの少し前を鼻歌混じりに歩く者がいた。
彼女は花見に相応しく、普段着での参加で、見慣れない水色の、胸元に留め具の付いた民族風の装束に袖を通していた。
確か、片親が他国の出身であるそうだから、その関係だろう。
当然ながら、忍の証である額当ても着けてはおらず、普段は窺えない白い額に前髪がさらりと流れ、どこか垢抜けて見えた。
それでも、普段の装いでなくとも、況してや後姿でも、ネジが彼女だと容易に認識出来るのは、頭の左右に対になって乗っている、トレードマークのお陰だろう。
不意に、前を往くそのお団子頭がネジを振り返る。
どうやら公私に関係なく、彼女はこの馴染みのヘアースタイルを貫いているらしい。

「ね、これからお団子屋さん行かない?」

空になった重箱の入った風呂敷包みを、後ろ手に纏め持ち、少女がネジを見る。
髪型と同じ名称の、これから行くには些か気が早いだろう行先を提案され、ネジはあからさまにげんなりとした表情を作る。

「……まだ食べるのか?」

まったりと花見を満喫していたとは言え、まだ彼女の大好きな御三時までは、大分ある。
正直ネジでも、満腹の胃袋に、これ以上物を入れる余裕はない。
桜を時折ちらりと見上げていたネジよりも、彼女の方がよっぽど、花見弁当を貪り食っていたように見えたのだが。

「食後のデザートよ。お弁当は私が持って来たんだから、ネジおごってよね」

ネジの作る渋面に怯むどころか、剰え無遠慮にも(たか)り出すテンテンだったが、それは単に交換条件にはならないように思えた。
如何にも、食事の世話をしてやった風に見せるテンテンに、ネジは決定的なことを告げる。

「……持って来ただけだろう?」

それは、どうせこんな物作れる訳がないだろうと、少しばかり料理下手なテンテンを虚仮にする類のものではなかった。
皮肉に塗れてはいるが、ネジは変えようのない事実を告げた。
何のことはない、自分から言ってきたのだ。
お母さんが作ったのだと。

「何よ、私だってちょっと本気出せば作れるわよ。何にせよ、しっかり食べたんだから、おごりね」
「……」

案の定、横目でネジを睨み、ぷいと前を向いた少女は、どう見ても機嫌を悪くしてしまった。
大体、リーやヒナタも一緒に食べたというのに、何故自分が奢ることになるのかと、不平を募らせるネジは、だがもう半ば諦めて黙ってついて行く。
多分、帰り道が一緒になった時点で、自分の薄幸は始まっているのだ。
そして団子を前にすれば、斜めになった彼女のそれが頗る良くなることは、予め分かっている。

「きゃっ……すごい風」

急に、通りを強風が吹き抜け、テンテンの短い悲鳴が上がる。
両側に並ぶ街路樹がざわざわと揺れ、ひらひらと穏やかに舞い落ちていた桜の花弁は、打って変わって乱暴に巻き上げられる。
そのあまりの風圧に、足を止めて、顔を腕で防ぎネジが遣り過ごしていると、前にいるテンテンが衣服を靡かせ、風に押し戻されそうになっているのが見えた。

「貸せ」

風に煽られ、持っていかれそうになっているテンテンの風呂敷包みを奪い、辛うじてその場に踏ん張っている彼女の肩を支える。
中身は空だから、大して重くないだろうと思っていたその荷は、意外にも結構な重量があった。

「……大丈夫か」

少しして、微風に落ち着いたのを見計らい、ネジは片手で支える、同じ様に顔を防いでいたテンテンを窺う。
声掛けにゆっくりと顔を上げたテンテンは、だが恐々と開けた眼を今一度閉じる。

「いたた……何か目にごみ入ったみたい」

瞼に手を添え、顔を顰めるテンテンは、幼い手付きでぞんざいにそれを動かす。

「待て、こするな……見せてみろ」

目元に置かれたテンテンの手を掴み、ネジが冷静に行為を止めさせる。
恐らく、今の強風で吹き付けた砂塵が入ったのだろう。
手を退かせ、彼女の頬に軽く触れる。
そして、上に向かせた顔をネジが覗き込もうとした時。

「わっ……」

短く声を上げ、テンテンがネジの胸に倒れ込んできた。
再び吹き出した強い風に、ネジは黙って彼女を受け止めると、そのまま背に腕を回し、胸の中に閉じ込める。

「ネ、ネジ……?」
「じっとしていろ」

疑問符を浮かべ、顔を上げたテンテンを胸に押し込み、低く唸る暴風から守るように細い体躯を抱く。
戸惑った声を出すテンテンは、だがネジに素直に体を預け、彼の胸の装束を握った。

「う、うん」

辛うじて、轟音の合間から聞こえたその返答の後、ネジはテンテンのお団子頭を、深く深く胸に押し込む。
力の加減などしなかったので、もしかしたら息が出来ないかもしれなかったが、テンテンは唯ネジにされるがままで、彼にしがみ付きじっとしていた。
二人して身を寄せて耐えていると、暫くし、ややもすれば永遠に続くのではと思った勢いに、終わりが見えた。
耳を満たしていた轟音が、次第に遠退き、大して機能していなかった聴覚が戻ってくる。
段々と体に吹き付ける風が弱まってきて、ネジはテンテンを包んでいた腕を緩めると、辺りを確認する。

「や……止んだみたい……?」

胸に、小さく息が掛かる。
テンテンが密着していた顔を離すと、ネジも腕を外し、彼女の体を解放する。
やはり息苦しかったのか、ふうふうと口で呼吸する彼女が発した小さな言葉に、ネジは返答を用意する。

「ああ……春嵐だな。暖かくなってきた証拠だが……何分砂を巻き上げて吹き付けるからな……。目はどうだ」

そう言えばと、言いながら思い出したネジは、まだ近くにいるテンテンを窺う。
きょとんとした表情の彼女は、パチパチと数回目を瞬かせると、首を傾げる。

「ん……何かもう、大丈夫みたい……?」

自分のことなのに疑問形である様から、ネジはテンテンの肩から手を離すと、瞳を覗く。
頬に手を掛け、顔を上向かせると、テンテンもまた茶色いそれで不思議そうにネジを捉える。
先程擦っていた片目は、涙で潤み充血していた。

「……? ネジ……?」

あどけない顔を向けるテンテンの、目尻に滲んだ涙を、そっと指で拭う。
休日に会った彼女は、随分と垢抜けて見えた。
忍具を仕舞うと、思いの外彼女は、何処にでもいるような普通の少女であった。


最新鋭の武器の話を意気揚々と語ることもなければ、特に料理が出来る訳でもなく、只、“お母さんが腕に縒りをかけて作ったから、沢山食べてね”と、豪勢な花見弁当を惜しげもなく仲間達に振る舞った。
コップが空になれば、水筒を持って温かいほうじ茶を皆に注いで回り、隣にいた見ず知らずの花見客には、お裾分けと金平牛蒡を取り分けて配った。
他班のヒナタが花見に混ざるのを躊躇していれば、ネジ、お前がいる所為だと、青臭い少年期に犯したネジの過ちを際どいギャグにしてみせ、その場を明るく和ませた。
正直テンテンは、始終忙しなく動き回り、花など殆ど見上げていなかった。
だがそんな彼女を、ネジが見ていた。
皆の為にと、皆が楽しめるようにと、一人気張っているテンテンの姿を。
全部、見ていた。

だから、ネジの迷惑など顧みない、傍若無人で小生意気な態度も、許せてしまうのかもしれない。
彼女が我が儘を言える人物は、意外と限られている。
――ああ、団子なんて、幾らでも奢ってやるから。
だから、重い荷物を、何でもない振りして持つな。

充血した瞳に、痛かっただろうなと、情を掛けてやれば、愛嬌のある茶色いそれは、忽ちネジの心を鷲掴みにする可憐さを発揮する。
何も考えなかった。
只自分を見上げてくるテンテンを、ネジはじっと見つめ返していた。
否、もうネジから注がれる眼差しをテンテンが受け止めているのか、どちらだか良く分からない。
一度交わってしまったそれに、後付けの理由は必要ない。
見つめ合っていると言えば、限りなくそれが真実であろう。
気が付いたら、ネジは引き寄せられるように、晒されたテンテンのなだらかな額に、唇を寄せていた。

また、風が出てきた。
しかし今度のそれは、暴風と変わることなく、触れ合った二人を柔らかく包み込んだ。
頬に当たる微風が、何だか酷く心地良い。

押し付けるだけの、静かな接吻の後、テンテンが、顔を離したネジをじっと“見つめ返す”。
見つめている筈なのに、どこかネジを透かしてぼんやり遠くを見ているような、曖昧な視線を寄越していた彼女は、暫しの後、瞬時に顔を真っ赤に染める。

「ネ……っ!? え……」

口をわなわなと震わせ、思ったように言葉が継げないでいるテンテンは、間違いなく戸惑っている。
当然と言えば、当然だろう。
いきなり、何の前触れもなく、仲間の男にキスされてしまったのだから。

「な、なにっ……な、なに、する……」
「ああ……すまない」

焦って吃るテンテンの心情を察し、ネジは頬に掛けていた手を外す。
取り敢えず詫びを入れてみたものの、ネジもまたその先に窮する。
今しがたの行為を、果たしてどう理由付けすれば良いのか、自分でも分からない。

「……いや……その……何だ」

明らかに説明を求めているテンテンの視線から、ネジは目を伏せた。
頭の中がぐるぐると回り、尤もらしい言い訳が出てこない。

「……あれだ。額当てを……していなかったから……今日は」

苦し紛れに絞り出された返答は、テンテンには意味不明なものだった。
思い出したかのように、ネジが持っていた風呂敷包みをテンテンに押し付ける。
えっ、と小さく声を上げそれを受け取ると、彼はもうテンテンを見ずに言った。

「……悪いが……団子屋は、今度奢る」

言い終わるが早いか否か、直ぐに背を向けるネジは、呆然と立ち尽くすテンテンを置いて、振り向くことなく足早にその場を離れる。
突き返された包みを握り締めながら、ぼうっとテンテンがそれを見守る。
恐らく、この春に見た景色の一つとして、それはテンテンの記憶装置にしっかりと組み込まれた。
ネジの匂いに包まれた、彼の柔らか過ぎる感触の、隣に。

「な、何よ、勝手なこと言って。今度っていつよ」

また、風が出てきた。
薫風に変わる前の、花弁を運ぶこの悪戯な風は、思いの外二人を近付けたようだ。
少女の顔は、依然として真っ赤なままで、いつまでも熱を帯びている。

ちょっと、ネジ?、とやっと我に返ったテンテンが声を荒げるが、その瞳に小さく映るネジは、振り向かなかった。








○お題SS『春の5題』より『春の嵐』○
(運命のストール/藤澤ノリマサ)


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