私立九瓏ノ主学園 アルスマグナ

□戻らなくていい
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奏くんが記憶をなくしてしまう原因となった出来事は、その日の午前に遡る。




その日は土曜日で、部活もなく久々の休みだった。

「みんな、僕のお家に遊びに来ない?」

という僕の誘いで、みんながお家に来てくれることになっていた。

だが、奏くんはお家に来る途中に不慮の事故に遭ってしまった。

奏くんは何も悪くない。

奏くんを轢いてしまったトラックが悪い。

詳しくは聞いていないけれど、絶対そう。

メンバーもみんなそう言っているし。

肝心の奏くんが記憶を失ってしまったから、本当のことを誰も知らない。

僕がお家に呼ばなければ……と考えたけれど、先生がそんなことはないと言ってくれた。





日曜日になり、僕だけで奏くんの様子を見に行った。

家に呼んでしまった責任を感じている以上、毎日来ないと気が済まない。

「奏くーん!」

ベッドに寝転がって小説とにらめっこをする奏くんに、いつものように手を振る。

「……昨日の」

いつもだったら笑顔で迎えてくれるはずなのにな……。

いやいや、しょうがないよね。

「僕、榊原タツキって言います!奏くんの一つ上だから先輩なんだ!一応ね!」

奏くんが目を丸くする。

僕ってそんなに年上に見えない?

しばらくして、奏くんがふっと笑ってみせた。

「タツキ、先輩」

恐る恐る僕の名を呼んだ奏くん。

「そうだよ!!よくできましたっ」

ついつい可愛く見えてしまって、頭をポンポンと撫でてあげた。

まるで猫のように目を細めて喜ぶ姿は、今までの奏くんからは全く想像がつかないほどだ。

「奏くん可愛い〜」

こんなことを言ったら、いつもの奏くんだったらこちらを向いてくれなくなるだろう。

しかし、今の奏くんは素直に受け入れていた。

「ありがとうございます」

なんて言って。

なんだか調子が狂う。

最初は、こんな奏くん見たことがなくて少し面白いな、なんて思っていた。

けれど、だんだんと寂しくなってきてしまった。

もし前の奏くんに戻ってくれなかったら?

ずっと、ずーっとこのままだったら。

嫌だよ、そんなの。

僕が好きな奏くんは、厳しくて、いつも落ち着いていて、それでも優しくて、みんなのことをわかってくれる奏くんだ。

「ねぇ、奏くん」

「はい?」

奏くんが優しい笑みでこちらを向く。

一見、前の奏くんと同じ笑顔だ。

だけど、僕にはわかる。

違う、こんなの奏くんの笑顔じゃないよ。

「ねぇ、戻ってきてよ……」

思わずベッド脇にしゃがみ込んでしまった。

今の奏くんにとって、そう言われることがどれだけ辛いのかなんて十分わかっていた。

でも、もう我慢できないよ……。

奏くんは今、どんな表情で僕を見ているのだろう。

怖くて顔を上げることができない。

すると、僕の頭にポンと置かれた手。

いつもの布の感触はなく、そのままの体温が感じられた。

「……すみません、思い出せなくて」

なんで謝るの?

どこまで優しいのだろうか。

奏くんのその一言で、堪えていた涙が溢れ出した。

その間も、奏くんは僕の頭を撫で続けてくれた。
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