おこさま?おうじさま!
□2日目 後半
1ページ/1ページ
『…さて。』
「?」
『お腹いっぱいになった?』
「うん。」
こてりと首を傾げる雲雀に、名前が頬を緩める。
美味しそうに食べてくれる雲雀が愛らしくて、ついついたくさんついでしまった。本人も空腹だったからかその量を楽々と胃に入れたため、問題はなかったが。
作り手の名前としては喜ばしい限りだ。
拾った時よりはるかに良くなった顔色に、名前からは自然と安堵の息が洩れる。
『…雲雀くん、家分かるよね?』
「…」
詰まる息と俯く顔。
噛みしめられた唇は、雲雀の心情をそのまま表しているようで。
待てど帰っては来ない返答に、名前はその理由を理解した。
そしておもむろに立ち上がり、雲雀の隣へ移動する。
『家に帰れって言われてると思ってる?』
「!」
弾かれるようにあげられる顔。その瞳はゆらゆらと揺れていて、名前は小さく苦笑した。
「……めいわく、かけてるから…」
『別に、雲雀くんが家にいるのがだめなわけじゃないんだよ?』
「でも…」
見上げる瞳が純粋すぎて、名前は言葉に詰まる。こども特有のそれは、自分が永らく忘れているもののような気がして堪らなくなったからだ。
それでも、いつも通りの笑顔で雲雀を安心させるように笑いかけた。
『私に親がいたように、雲雀くんにも親がいるでしょ?その人たちに心配をかけさせないためにも、帰るなり連絡するなりした方がいいかと思ってさ。』
「…あのひとたちは…ぼくのしんぱいなんて、しないよ。……名前さん、と…」
はっとしたように頬を染めた雲雀に、名前はきょとりと視線を向ける。
しかしその言葉を理解した途端、名前の心中はどうしようもないほど愛しさで溢れた。
ーー同じ事を、考えてくれていた。
一方隣で頬を赤らめたままもじもじとする雲雀は、自分の言動にどぎまぎしていた。自らの口をついて出たその言葉は、まるで今までの自分の考えを根底から覆すようなもので。
群れる生き物である草食動物と同じ様な思想を持つなど、本来あってはならないことだったのだから。
『雲雀くん、』
「…ごめん、なさい…!」
『あらら、どうして謝るの?』
「わがままをいうつもりじゃ、なくて…」
雲雀にとって、我が儘とはもっとも必要のないものだった。必要とされないものだった。言ってはいけないものだった。
我が儘なんて、存在しない家で育ってきた。
我が儘なんて、許されない家で育ってきた。
我が儘なんて、愛されない家で育ってきた。
そんなものは、強くなるためにはいらないものなのだから。
またもや黙りこんでしまった雲雀に、名前はとあるこどものことを思い出していた。
誰にも愛されず、一人で、独りで生きるしかなかった少女のことを。
…小さい頃の、自分のことを。
『……よし。』
「…?」
小さく決意付いた名前を見上げる雲雀。そんな少年に手を伸ばした名前は、今までで一番穏やかな顔をしていて。
殴られるかもしれないと不安を抱きつつも、なぜだかそうはならないような気がして、結果雲雀がそれを拒絶することはなかった。
そして優しく包み込まれる頬に感じる手のひらの熱は、雲雀の体温より少しだけ低く感じた。
『やっぱり、帰ろう。』
「っ…」
『…それで、』
続く言葉に期待するように雲雀が見上げれば、名前から僅かに笑い声が上がった。
『そのあと、親御さんがいいって言ったら…少しの間でも一緒に住もう?』
「!」
『迷惑とか、考えなくていいから。どうかな?』
名前自身、口をついて出た言葉に驚いていた。なぜこんなことを言ったのかと。
今までは他人へ関心をやる暇があるのなら、自分のために何かをしている方が有意義だと思っていた。実際その生き方に不自由を感じたことはないし、幸い社交性は兼ね備えていたので不便もなかったのだ。
だからこそ、雲雀という他人、尚且つ会ったばかりのこどもにこんなことを言う自分に、自分が一番驚いていた。
「いいの…?」
『うん。』
「…きっと、たくさんめいわくかける。」
『いいよ。我が儘もたくさん言って。』
小さく開かれた口から紡がれる言葉を待つ名前は、とても優しい顔をしていて。
雲雀は漠然と、この人なら大丈夫だと感じた。
「……いっしょに、いたい。」
ふんわり、名前の笑みが深まる。つられて雲雀の頬も緩めば、なんだか自然と穏やかで暖かい、不思議な気持ちになった。
このとき名前を突き動かしたものは愛しさ、面影。
このとき雲雀を突き動かしたものは芽吹いたほんの僅かな信頼、それから淡く甘い感情。
後者の感情の名前を、雲雀は知らない。しかしそれはなぜだか初めから、本当に最初からもっていたものだった。まるで自分の中の何かが呼応するように。
本来雲雀が他人に気を許すことなどありえない。それは同じ家に住む血族にもいえることで、過去に雲雀の輪の内側に入ったものはいなかった。
だがその中に易々と入り込んだ名前。その理由を知る人間は、まだ存在しない。
何はともあれ、結果こうなる決め手となったのは、不思議と両者ともに『初めて会った気がしない』と感じていたことだった。
* * *
『んし、じゃあ行こうか。』
「うん。」
財布などを鞄にいれ、戸締まりをしてから家を出る。先に雲雀の家に行くとのことで、今は並盛幼稚園に向かうところだ。
話は雲雀本人がつけたがったため、家までの道のりが分かる幼稚園まで連れていくことになったのだ。
名前はふと財布の中身が如何なものかと記憶を掘り出す。確か今月の仕送りは若干いつもより多かったので、雲雀の日用品に使っても問題なかっただろう。ともあれ仕送りの額が些か中学生に送るには多いので、今までの分も相まって金には困らないはずなのだが。
カードはないのでコンビニで下ろさないといけないと目的を立て、満足気に頷いた。
「…名前さん、」
『ん?』
ちょいちょいと引っ張られる袖に名前が下を向けば、少しだけ頬を染めた雲雀がいる。言いづらそうに頬を染めてもじもじとする仕草は愛らしいのだが、いかんせん往来の真ん中なので立ち止まり続けるのも問題だ。
促すように首を傾げれば、意を決したように口を開いた。
「…て、つないでもいい…?」
随分可愛い我が儘だと、名前は思った。
返答の代わりに小さい手のひらを包んでやれば、少し恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに頬を緩める雲雀。
もう一度しっかりと柔らかく暖かいそれを握り直して、幼稚園へと歩みを進めた。
* * *
『本当に大丈夫?』
「うん。すぐもどってくるから、ここでまってて。」
とてとてと駆ける雲雀と、それを見送る名前。駆ける雲雀の瞳は決意で満ちているというのに、名前の瞳は不安で揺れていた。
ーー大丈夫、だろうか。
親に会うことはもちろん、道中の車道やらが名前にとっては不安の種であって仕方ないのだ。雲雀が聡明であることは十二分に理解しているのだが、それとこれとは話が別である。
不安や焦燥をため息で吐き出すと、金を下ろすべく近くのコンビニに足を向けた。雲雀が帰ってくるまでには済ませなければと、なるべく早足で。
一方の雲雀は5歳児とは思えない速さと持久力で駆けていた。名前を待たせたくはないと。
彼女といると、ほんの少しだけ脈が早くなる。病気というほどのものではないが、僅かに体温が上昇するような症状もあった。
ーーなんだろうか、この気持ちは。
今はそれよりこちらが優先だと見えてきた日本家屋に目をやる。おおよそ豪邸と呼ばれるそれは、この辺りを取り締まる地主、雲雀家のものだ。
そこではて、と首を傾げる。
ーーなんだか年季が増した気がする。
気のせいかとも思ったが、正門の木製の表札が少し日焼けしているのを見て違和感を感じた。
まるで10年後の家の様だと。
まあそれは雲雀にとってはどうでもいい問題だったため、必要以上の疑問は持たずに正門を通りすぎる。彼には特別な抜け道があった。
自分の部屋の近くに、小さい自分だけが入ることのできるような穴が。
わりと入り組んだ場所にあるため、いままで見つかったことはない。
そしてその穴を潜れば目の前にある自分の部屋の障子。目配せして人がいないことを確認すると、そっと開いて忍び込む。
「…掃除された?」
いつになく殺風景な部屋。ベッドは一夜にして変えられたのか、前にも増してシンプルになっていた。
勝手に部屋を弄られた不快感でいっぱいになるが、名前を幼稚園前に待たせていることを思い出して我に帰る。
机にあった紙とペン。そこに雲雀家では魔法とも言える言葉を書き連ねて、親の顔なんて欠片も気にしないまま家を出た。
このときの雲雀には、親も幼稚園も修行も何も頭にはなかった。ただ一人、名前のことしか雲雀の眼中にはなかったのだ。
優しい、彼女のことしか。
* * *
「名前さん、」
『!雲雀くん!』
少し息を切らせてやってきた雲雀に名前が心配気な表情で駆け寄る。しゃがみこんで目線を合わせる名前に、雲雀は僅かに恥ずかしげに頬を染めて俯いた。
「またせてごめんなさい…」
『そんなこと気にしなくていいよ、たいして時間たってないから。どうだった?』
「…おきてがみ、してきた。あれならさがされないからだいじょうぶ。」
雲雀の言葉に名前が不安そうに顔をひそめる。だが、今までの雲雀の物言いからしてもあまり暖かい家庭でないことは理解していたため、それについての疑問を口に出すことはなかった。
その代わりによしよしと頭を撫でる名前。その手つきは少しぎこちなくて、雲雀の胸がきゅうと締め付けられる。どくりどくりと煩い心臓と、どんどん上がる頬の熱。
ちらりと名前を見上げれば、困ったような微笑みが浮かんでいて。
ーー違う。見たいのはそんな顔じゃない。自分が見たいのは、もっと愛嬌のあるあの笑顔だ。
そう雲雀は思うが、生憎と勉学や武術の教育はされても人の心情を汲み取るような場面が日常生活中になかったために、名前を笑顔にする方法など思い浮かばなくて。
再び俯いてズボンを握ることしかできなかった。
『ちなみに、なんて書いてきたの?』
「……"強くなってくる"…」
『…ん?』
名前の頭に数々の疑問が浮かぶ。それでも目の前の少年が嘘をついている様子はない。
不思議な家庭なんだと思うに留め、何も聞かずに立ち上がった。
『私、疲れちゃったからさ。お買いものは明日にして今日は帰らない?』
「?うん。」
彼女が疲れる要素はあっただろうか。雲雀がそう首を傾げるが、見たところ疲れている様子もなければ、どちらかといえば元気だ。
度々ちらりと自分を見る名前に、雲雀はようやく彼女の言葉の意味を理解した。
ーー気を遣ってくれているんだ。
それは肉体的なものも少なからずあるだろうが、おそらく精神的なものを考慮してだろう。自分で望んだとはいえ、親元を離れることを不安に感じていると思っているのではないか。
実際はそんなことはない。むしろ…
繋いだ手に少し力を込めれば、振り返った名前がふんわりと微笑んだ。
再びどくどくと波打つ心臓に頬が熱くなり、そっと目を伏せる。
ーー彼女とともにいられるのだから、これほど嬉しいことはないというのに。
自分の中のなにかと、自分の声が重なった気がした。
* * *
ぱさりと雲雀の体を覆う布団。ふわりと香った名前の柔らかく暖かい匂い。
『それじゃあ、なんかあったら私の部屋に来てね。』
「…うん。」
するすると撫でられる頭に嬉しくなって名前の手にすり寄れば、小さく笑い声が聞こえてくる。
離された手を無意識に名残惜しそうに見つめていれば、その笑い声は声量を増した。
『そんなに見なくても、明日も撫でてあげるから。』
「!べ、べつになでてほしいわけじゃ…」
『ふふ…そうだね。私が撫でたいだけなのかもしれないね。』
最後にぽふぽふと撫でたあと、名前が立ち上がって扉に向かっていく。
『おやすみ、また明日。』
「…おやすみ…」
雲雀が小さく伸ばした手に、名前が気づくことはなかった。
* * *
白い、白い空間。
相も変わらず明るい空間。
そしてそこに立ち竦む一人の男。
その男の足下に、一つのコップ。手のなかには黄色のタオルがあった。立っている少し先には、黄緑色の体温計らしきものも落ちている。
タオルを胸元で抱き締めた男は、いつかと変わらぬ赤く染まった顔をしていた。
少しずつ色が増えていく空間。
いったいここは、どこなのだろうか。
それを知るのは、今はここに住まう男、ただ一人だった。